29.流産した子は今どこに

  私は数年前流産しましたが、今その子のことが何かしら気になります。
 よい解決方法を教えて下さい。

 流産されたお子様のことが気になるとのことですが、どのように気になさるのでしょうか。

 気になり方が大きく分けると二通りあると思いますので、二通りにわけてお話をさせて頂きたいと思います。

 一つには、流産されたお子さんが、今どうしているのだろうか、俗に言う「いいところ」にいっていればいいが、もし「わるいところ」にいって苦しんでいるのなら、親として何をしてやれるのだろうか、というような気になり方です。

流産をしたお子さんを思うお母さんのやさしさです。

 二つには、流産した子の供養(死んだ子の霊を慰めると言うような意味、浄土真宗にはこのような考え方はありません)をしていないかが、何かの時に祟るのではないか、最近身体の調子も思わしくないが、流産したこが祟っているのではないか、どうも気になるというような気になり方です。このような気になり方は、子供のことより、我が身のことだけを案じるという自己中心の悲しいあり方です。

 仏教婦人会員であるあなたが、このような気になり方はされないと思いますが、最近はやりの水子供養の考え方は、このような考え方が非常に強いようですから、ここであわせて考えておきたいと思います。 

 まず、一つについてお話をしてみたいと思います。この世に生まれることもなく、いわんや、お念仏の教えに遇うこともなかったお子さんが、今何処にいるのだろうかと気になさるのは、母親として当然のことで、気にならない方がおかしなぐらいです。でも、いくら気になさっても、悲しいことですが私たちには、お子さんが今どうなっているか分りません。

 十方の衆生(あらゆる世界の生きとし生きるもの)を、一人ももらさず救わずにはおかないと立ち上がってくださった阿弥陀如来に、お子さんのことをお任せするしかありません。「阿弥陀如来は間違いなく、私どもをお救い下さるのでしょうか」、「本当に阿弥陀如来におまかせしておいて大丈夫でしょうか」というような心配があなたのどこかにあるならば、「阿弥陀如来は本当に間違いのないお方か」、「阿弥陀如来は、おまかせすれば本当に引き受けてくださるお方か」を、あなた自身が納得のいくまで聞きひらくことです。

 あなた自身が阿弥陀如来のお心を聞きひらき、阿弥陀如来の広大なお慈悲を信知するならば、阿弥陀如来にお任せするしかないことが明らかになるでしょう。 阿弥陀如来が間違いのないお方であることがあきらかになれば、流産したお子さんのことを心配することはなくなりますし、親の自分も、阿弥陀如来に信順することによって、いつか阿弥陀如来のお国で、この世では顔をみることもできなかった我が子と会うことのできる道が開かれていることまでが明らかになります。これ以上の素晴らしい解決はないと思います。 

 次に二についてですが、自分の身がかわいいのはお互いですが、流産した我が子のことを心配するどころか、祟るものとしか、我が子をみることができないのならば、あまりにも悲しいことです。

 自分中心にしかものを考えることのできない人は、たとえ水子供養(水子の霊を慰める儀式、浄土真宗にはこのような儀式はありません)をして、一時的に気は休まっても、また何かあると、やっぱり我が子の祟りではと、死ぬまでことあるごとに祟りをおそれて過ごさなければならないでしょう。

 ものの受け止め方が根本的に変らないかぎり、何かが祟ると、責任を流産した子にまでなすりつける人の救われる道はありません。

 自分の人生に都合の悪いことが起こってくれば、流産した我が子のせいにしてでも責任を他においかぶせる自らの勝手さ、無責任さに気付かないかぎり、解決の道はありません。

 自らの勝手さ、無責任さに気付く時、はじめて本当に救いを必要としているのは自分自身であることに気付くでしょう。

 自分中心の小さな殻に閉じこもっている私たちを、「一時も早く広い世界に、共に生きる世界に出してやりたい」と、喚びつづけてくださる方が阿弥陀如来です。

 阿弥陀如来のみ教えを聞き、自らのあり方を知らされ、自らの救われていく道を知らされない限り、解決の道はありません。

 流産した子のことが気になって、「お経」に遇うことはいいことですが、その「お経」は流産した子を慰める「お経」ではありません。自分勝手な自己を知らされると共に、こんな私でさえ見捨てることができないと案じてくださる阿弥陀如来の大悲に遇うことが「お経」に遇うと言うことです。

 流産した子が気になることを縁にして、あなた自身が、真実のみ教えに遇う以外に解決の道はありません。

 このことをご縁に、あなたが真実のみ教えに遇うことができれば、正しく、流産した子は、あなたにとって善知識(真実に導いてくださる師)であります。

 また、これからは、流産しないような心配りをする姿勢も、生まれてくることでありましょう。