12 悪人は救われるのか

 『歎異抄』に、「善人なほもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とありますが、第十八願の「ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除かん」のお言葉に反するように思うのですが、どのように考えればいいのでしょうか。

 真剣に聴聞してくださる人なら、一度は必ず問はずにはおれない大切な問題です

 第十八願のお言葉をそのまま頂きますと、「五つの大切なご恩に逆くような悪人や正法の悪口をいうようなものは、すくわれない」ということになります。それなのに、親鸞聖人は「善人でもすくわれるのだから、悪人は当然すくわれる」といわれる」といわれているのです。

 もっと端的にいいますと、第十八願ですくわれないといわれた悪人を親鸞聖人は「当然すくわれる」と、一見矛盾するようなことをいわれているのです。「一体これはどういうことですか」というのが、このおたずねです。

 確かに言葉の当面だけを見れば真反対ですが、言葉は言葉だけで存在しているものではありません。言葉には、必ずその言葉にこめられた心があります。ですから、言葉は真反対でも心は一つということがあります。例えば、「好き」という思いを言葉にするとき、「あなたが大好きです」と、短刀直入に言う人もいるでしょうし、「あなたなんて大嫌いよ」と、裏返していう人もあるでしょうし。このように言葉は真反対でも言おうとする思いは一つということはよくあります。

 第十八願と『歎異抄』は、お言葉は真反対ですが、言おうとされることはひとつで「悪人を必ずすくう本願がある」ということです。

 第十八願の言葉について言いますと、本当に「除く」ことができるのなら、わざわざ言わなくても、ほっておけばいいのです。「除く」ことができないなら「除かん」といわれるのです。親鸞聖人は、「除かん」という言葉の奥にあるものを受けとめられたのです。すなわち、「除かん」という言葉の奥にある「五逆と正法を誹謗せん」ものを「どうしても除くことができない」という阿弥陀如来の大悲を頂かれたのです。親鸞聖人は、この「除かん」といわれる如来さまのお心を

 「唯除五逆・誹謗正法」ちふは、「唯除」はただのぞくといふ語なり、五逆の罪人を嫌ひ謗法の重き咎をしらせんとなり、この二つの罪の重きことを示して十方一切の衆生皆漏れず往生すべしと知らせんとなり。

                       (『尊号真像銘文』)

とよろこばれました。

 「どんなことがあても救う」のお言葉に遇えば、「何をしても救って下さるから」というようなことにならないでしょう。

 放逸に走りがちな私たちのあり方を、如来さまは見抜いて、その罪の重いことを教えて、実は「そんなおまえが一番気になっているんだよ」と案じてくださるのです。その如来さまのお心が、「除かん」という言葉の奥にあるのです。

 そのお心を、親鸞聖人は正しく受けとられ、「悪人を切り捨てることができない」という如来さまのいて下さることを明らかにしてくださったのです。それが『歎異抄』の「いわんや悪人をや」のお言葉なのです。

 なを、『歎異抄』でいわれる「善人」とは、「自力作善の人」のことで、誰の力をかりなくとも自分の力でこの人生を生ききって行くことのできる人のことです。如来さまはそのような人すらもほっておくことができない方なのです。

「悪人」とは、「他力をたのみたてまつる」人のことです。すなわち、如来さまのささえがなければ、この人生を生ききっていくことのできないもののことです。これらのことが明らかになれば、お尋ねの問題も、自ずから解けることと存じます。