真宗ではなぜ水子供養をしないのか。また、先祖供養がなぜダメなのかを教えてください
「真宗ではなぜいけないのか」、「真宗ではどうしてダメか」という質問に答える前に、そのような問い方について考えておきたいと思います。なぜならば、これほど非宗教的な問い方はないからです。
宗教は、自らの「いのち」の問題であり、自らの生き方の問題であります。誰が何を言おうと、私にはこうしかないとなったら、「いのち」をかけても、その道をいけばいいのです。ですから、また反対に、誰がどういおうと、自らうなずくことのできないことはやってはいけないのです。「みんなの人がしている」、「多くの人が言っている」と、無反応、無批判に、みんなのうしろからついていくのなら、宗教は要らないのです。
「あなたの命のあり方はそれでいいのですか」、「あなたの生き方はそれでいいのですか」と問いかけ、私たちの「いのち」の真のあり方、本当の生き方を教えてくださるののが、お釈迦さまのみ教えなのです。
ですから、浄土真宗においても、あれがいけない、これがいけないと教えることはありません。「いのちの真のあり方」、「人間の本当の生き方」を教えてくださったのが親鸞聖人です。私たちは、その教えを聞き、その教えに照らして、自らのあり方や行動を考えればいいのです。
み教えに照らして、水子供養がいいか悪いか、先祖供養はどうかは、自らが考え、決めることなのです。自分自身の人生なのですから。私たちはややもすると、何事も他の人に判断させ、都合のいいときは、「私もそう思っていた」といい、都合の悪い時は、「あの人がああいった」と、責任逃れをします。ややもすると、真宗と水子供養を相撲させて、自らは見物する立場にいるようなことになってしまうのです。
自らの人生を自らが生きるということは、いつでも自らが土俵に上がって相撲をとるということです。ですから、これから、「水子供養とは何か」、「先祖供養とは何か」をお話しますので、日頃浄土真宗のみ教えを聞いておられるあなた自身、「それをするのか、しないのか」、「いいというのか、ダメと言うのか」を考えていただきたいのです。
まず、水子供養についてでありますが、この場合、水子とは、流産したり、堕胎した胎児をいうのでしょう。それも追善供養の対象にされる場合は、「たたり」をなすような怨霊として、実体的にとらえているようです。「水子霊」とよんでいるのがそれであります。
供養とは、本来の言葉の意味からいいますと、「尊敬すること」、「礼拝すること」、「尊敬をもって受けとること」などの意味です。また、中国では供養を「供給資養」と、解釈され、仏・法・僧の三宝を資養するために尊敬の心をもって香・華・灯明・飲食などを奉ることをいうとされています。この供養と言う言葉で、いつの間にか死者に対する追善供養、餓鬼に対する施餓鬼供養が行われるようになりました。その流れに水子供養、先祖供養というものがあります。
身近に悪いことがあると、「水子が祟ったのでは」、「先祖が迷っているのでは」と考え、お経を追善供養に使って、「水子の祟を鎮め」、「先祖に成仏してもらう」とし、身近な禍いを除こうという考え方が、水子供養・先祖供養という考え方にあります。
自分自身に何か問題が起こるたびに、「水子」が、「先祖」がと、水子や先祖を怨霊のように考える考え方には、仏教本来の「尊敬すること」、「礼拝すること」という供養の意味は、全くありません。
一つひとつの出来事や問題をも教えに問い、み教えを聞いていこうというのが、浄土真宗であります。み教えを聞くことによって、「自分中心の得手勝手な自分」を知らされるとともに、「都合が悪くなると、水子や先祖にまで責任をなすりつける恐ろしい私たちに、かかりきってくださる阿弥陀如来」に遇わせていただくみ教えが、浄土真宗なのです。