浄土真宗では<祈る>という言葉よりも<念じる>という言葉がよく使われます。だが、<祈る>も<念じる>も同じ意味のように思うのですが・・・・。
確かに「祈る」といっても「念じる」といっても、あまり意味は違わないように思います。それなのに、お念仏を喜んだ私たちの先輩は、日常会話においても、手紙一つ書くにしても、「祈る」という言葉をできるだけ使わないようにしてきました。このことになぜだろうと、不審をいだかれるのは当然だと思います。まず「祈る」という言葉の意味から考えてみたいと思います。
「祈る」という言葉には二つの意味があります。一つには「神や仏に幸いを請い願う。祈願する」という意味、二つには「心から望む。希望する。念ずる」という意味(『広辞苑』)です。
ですから、二つ目の意味からいいますと、言葉の上では、「祈る」と「念じる」ということですからご質問の通りなのです。
しかし、一つ目の意味からいいますと、「祈る」と「念じる」は、意味が明らかに違います。
阿弥陀如来の本願をひとすじに信順する宗旨、阿弥陀如来の大きなお慈悲を頂いて、お浄土まで生きぬかせて頂く宗旨、阿弥陀如来よりたまわった信心ひとつで救われていく宗旨、阿弥陀如来に救いを請い願う前に、「おまえをほっておくことができない」と、先手をかけて私をだきしめにきてくださる阿弥陀如来のお心を聞かせて頂く宗旨が、浄土真宗であります。
このように、阿弥陀如来の救いは、私たちの「すくいを請い願う」行為に用がないのです。いや、用がないだけでなく、そのような行為に頼っている間は、
自分の思いが優先して、阿弥陀如来のお心を受け取ることが出来ません。それで、請い願う意味での「祈る」という行為を強く否定するのが、浄土真宗であります。
親鸞聖人がおすすめ下さる「雑行を棄て、本願に帰す」(顕浄土真実教行証文類)とは、自分の行為をよりどころにする心を棄てることが、そのまま本願をよりどころであるというお言葉であります。
だから、一つ目の意味での「祈る」ということは、どこどこまでも否定されなければなりません。
私たちの先輩が「祈る」という言葉を使わないようにしてきたのは、一つ目の意味があるからです。
では、親鸞聖人自身は「祈る」という言葉を使われなかったのかといいますと、そうでもありません。二、三ヶ所ですが、聖人も「いのる」という言葉を使っておられます。すなわち『高僧和讃』には
仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらはるる
と、「祈る」という言葉を使われ、『御消息集』(聖人のお手紙を集めたもの)の中では、
念仏を御こころにいれて、常にまふすて、念仏そしらんひとびと、この世、のちの世までのことを、いのりあわせたまふべくそふらふ。御身どもの料は、御念仏はいまはなにかはせさせたまふべき。ただひがふたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはば、仏の御恩を報じまいらせたまふになりさふらふべし。
と述べておられます。
もうすでにお気づきでしょうが、同じ「いのる」という言葉ですが、ご和讃の「いのる」と、お手紙の「いのる」は、その意味が大いに違います。
ご和讃の「いのる」は、「どんなことがあっても捨てることができない」と喚んでくださる阿弥陀如来のお心をよろこばせて頂く念仏をもって、自分の都合のいい願いをかなえてもらうことを請い願う意味ですから、一つ目の意味です。
それに対して、お手紙の「いのる」は、念仏をそしる人びとに、間違った考えにとらわれている人びとが、真実にめざめて下さることを念じるということですから、二つ目の意味です。
このことから明らかなように、親鸞聖人は、間違った考えにとらわれている人びとが、真実に目覚めてくださいと念ずる「いのり」、すなわち、二つ目の意味の「いのる」はすすめられますが、自分の都合のいい願いの実現を請い願う「いのり」、つまり一つ目の意味での「いのる」ということは退けられました。
私たちが「祈る」という言葉を使う時、どちらの意味で使うことが多いでしょうか。私たちの場合、「祈る」という時、無意識でありましても、自分の都合のいいことを請い願うという一つ目の意味の方になっているのではないでしょうか。
私たちのこのようなあり方を知らされた時、私たちの先輩は、間違いやすい「祈る」という言葉を避けて、間違いのない「念じる」という言葉を使ってきたのです。「祈る」という言葉を絶対に使ってはいけないという事ではなしに、自分中心の欲望に生きがちな自らのあり方を知らされたものが、親鸞聖人のお心に違うことをおそれ、用心して「祈る」という言葉を使わずに、「念ずる」という言葉を使って来たのです。
私たちも、こうした先輩の用心に学びたいものです。