13 なにが浄土に往くのか

 孫とお墓の掃除に行って、「お墓の中に骨があるけど、何が浄土へ往くの」と、質問されたのですが、どのように説明したらよいのでしょう。

「どう孫に説明すればいいのか」とか、「子供にどう答えればいいのでしょうか」という質問そのものに、すこし問題があるようです。

 説明できない、答えられないというのは、結局、自分がよくわかっていないからではないでしょうか。自分が解かっていれば話し方の上手、下手はあっても、何とか説明なり、答えができるものです。

 ですから、孫や子の質問に説明できない、答えられないのならば、自分がよくわかっていないからですから、孫の問い、子供の質問を、自らの問題として問うのが本当です。

 孫に説明するために孫に代わって問う、子供に答えるために子供に代って問うという姿勢の中に、自分は解かっているのだが、上手に説明したり、答えられないというという思いがあるのではないでしょうか。

 自分の問題とし、自分が問い、自分が聞いて、しっかりと受けとめれば、説明なり、答えはできるものです。受け売りで、孫に、子供に話しても、再質問されれば言葉に詰まってしまうでしょう。

 ですから、この質問にも、孫さんにこのように説明してはとか、子供さんにこう答えなさいというような解答はしません。質問をしてくださったあなた自身にお話を致しますので、あなたがしっかり受けとめ、あなたの言葉で、お子さんやお孫さんにお話してあげてください。

この質問は、真宗の教えにはじめて触れた人の問いであるとともに、よくよく聞いた人の最後の問いでもあります。

 「浄土に往く」とは、どうなることでしょうか。「往く」とは、「生まれる」ことです。それで、仏教では、「往く」ことを「往生」とは、新しい生命の誕生ということです。

 親鸞聖人は、ご信心を頂いて、新しい生命の誕生をさせて頂くことを「難思議往生」といわれました。

 信心とは、阿弥陀如来のお心を聞くことによって、自らの愚かな、何とも頼りない相をしらされると共に、確かな阿弥陀如来のお心に出会うことです。

 自分の何とも頼りないあり方が知らされれば、今までのように、二言目には「俺が」、「私が」と、我を張ることができなくなります。ご信心を頂くまでの私は、結局、自分を確かなものと思い違いし、「我」をよりどころに生きてきたのです。

 確かな阿弥陀如来にであった私の生き方は、阿弥陀如来のお心をよりどころに生きる生き方に変わります。すなわち、ご信心を頂くことによって、「我」をよりどころに生きてきた生命が死に、阿弥陀如来をよりどころに生きる生命が誕生するのです。これが「即得往生」です。しかし、阿弥陀如来をよりどころとして生きる新しい生命も、煩悩具足の身を生きる生命であることには変わりがありません。そこに、この世では、すべてのこだわりを離れた仏(覚者)に、どうしてもなれないという理由があります。

 阿弥陀如来をよりどころに生きる煩悩具足の身が、この世の生命を終わらせるとき、すなわち煩悩具足の身が滅するとき、文字通り、身も心もすべて阿弥陀如来と等しい「いのち」として誕生するのです。これを「難思議往生」といいます。

 難思議とは、文字通り、私たちの頭では思議することの難しいというか、及ばないということです。

 「何が」往生するかといえば、「私が」としかいえませんが、それは決して、この世に生きたときの「私が」、そのままお浄土に生まれるのではありません。

では、どのような「私が」、お浄土に生まれるのかといいますと、今の私では、とうてい思議できない「私が」、お浄土に生まれるのです。

 「はたして、嫁にいってつとまるのかなと思っていた娘が、生家にいるときには考えられないような変わり方をして、立派に嫁のつとめを果たしているようです」と、よろこぶお母さんの話を聞いたことがあります。嫁に行く前の娘さんと、嫁にいってからの娘さんは別人ではありませんが、しかし、おなじではありません。

 浄土に生まれる前の「私」と、浄土に生まれてからの「私」は、別人ではありませんが、やはり、同じではありません。その変わり方は、浄土に生まれる前には考えられない変わり方なのです。それで「難思議往生」というのです。

 また、「お墓の中の骨」をどう考えればいいかということですが、遺骨は文字通り、この世に生きていたということを証明する遺物でしかありません。

 散発して切った髪の毛は、私の毛ではありますが、その髪の毛が私ではありません。それと同じように、残った骨は私の骨であっても、私そのものではありません。私は阿弥陀如来のお心を頂いて、お浄土に生まれさせて頂くのです。