先日、教区の仏教婦人大会で、宗門の基幹運動について話を聞きましたが、まだよくわかりません、詳しく教えて下さい。
私たちの宗門は、「他力信仰の本義の開顕に努め、人類永遠の福祉に貢献することを目的とする」教団であります。
他力信仰の本義とは「どんなことがあっても、あなたを見捨てることはありません。そんな小さな『我』の殻の中にとじこもらず『われら』と一緒に生きましょう」と、喚かけて下さる阿弥陀如来の声に信順して生きることです。
他力信仰によって、すべての人が「われら」と、むつみあい、「御同朋」と、かしずきあえる人間関係がひらけてきます。
「われら」と、むつみあい、「御同朋」と、かしづきあえる社会がじつげんしてこそ、人間は本当に幸福になるのです。
いくらお金やものに恵まれても、「この人とは他人」、「あの人とは敵」と、にらみあい、いがみあっていては、不幸になることはあっても、幸福になることはありません。「語同朋」の社会、「われら」の世界の中で、私たちは本当の幸福を感受することができるのです。
そこで私たちの宗門では、教団の目的を達成するために、「語同朋の社会をめざして」という目標をかかげ、宗門人の全部が同朋教団の一員として、共に手をたづさえて進んでいこうとしています。
同朋教団とは、御同朋の社会の実現に努力する御同行の教団です。
私たちの信心とは、同朋教団の一員であったとの目覚めです。私たちの報謝行とは、同朋教団の一員としての実践であります。
同朋教団の一員としてのめざめをうながし、同朋教団の一員としての実践をしていこうと、宗門あげて取り組んでいるのが、基幹運動です。基幹運動とは、宗門の一番基本となる根幹の運動ということです。
現在、基幹運動は、門信徒会運動と同朋運動の二つを一つの運動として進められています。
門信徒会運動とは、「本願を仰いで生きられた親鸞聖人に学び、常に全員が聞法し全員が伝道して、わたくしと教団の体質を改め、同朋教団の真の姿を実現する」運動です。
同朋教団の一員としての目覚めは聞法抜きには考えられません。宗門人の一人ひとりが自らの問題として、真剣に法に問い聞いていくことが何より大切です。
同朋教団の一員としての実践は、伝道抜きには考えられません。門宗人の一人ひとりが聞いたみ教えを慶び、賜った信心を讃嘆していくことが何より大切です。自らの問題を素直に問い聞く門法、聞いたことを素直によろこぶ伝道を通して、同朋教団の一員としての実践をしていきましょうというのが門信徒会運動です。
門信徒会運動という名称は、親の代からご縁のあった門徒も、新しくご縁を頂いた信徒も一つに会して一つの目標に向かって進んでいきましょうという意味です。
同朋運動とは、「本願を仰いで生きられた親鸞聖人に学び念仏者の責務として、社会的事実にかかわっていく中で、不合理な差別問題に積極的に取り組み、同朋教団の真の姿を実現する」運動です。
「御同朋」と、かしづきあう人間のあり方と、真反対のあり方が「差別」です。私たちの周りには女性差別・障害者差別等沢山の差別があります。中でも、これらのすべての差別の基礎となる同和問題ほど、不当、不合理な差別はありません。
同朋教団の実現をめざす私たちは、この差別の問題を避けて通ろうという姿勢がいささかでもあるならば、同朋教団の自覚、すなわち信心のない人であり、同朋教団の実践、すなわち報謝行の欠けた人であります。
差別の問題に積極的に取り組むところに、親鸞聖人に学ぶものの生き様があり、念仏者としての責務をはたすということがあるのです。同朋運動は、「御同朋の社会をめざす」念仏者が、真に念仏者であるかどうかが問われる場です。
み教えを聞くということは、ただいい話を聞いて、教養を身につけるということではありません。
み教えに生きるとは、自らがこの社会でどう責任をはたし、どう生きるかという問題です。
み教えを聞くことと、み教えに生きることは別のことではありません。すなわち、門信徒会運動と同朋運動は別の運動ではありません。それで現在では基幹運動という名のもとに、従来二つの運動として推進してきた運動を、一つの運動として推進されているのです。
仏教婦人会員の皆様も、会の活動の中でこのことをしっかりと踏まえて、基幹運動にお取り組みいただきたいものです。