9 社会の問題とご信心

これまで社会の問題にかかわらないところで聴聞してきましたが、社会のいろいろの問題と、ご信心とは関係ないのでしょうか。

 はじめに聴聞とは何かについて述べ、その後で社会問題と信心ということを考えてみたいと思います。

 これまで聴聞とは、如来さまの教えを素直に聞かせて頂くことということで、そのありかたはあまり吟味されてきませんでした。

 私はこのことをすこし不親切であったのではないかと反省しています。なかなか素直に聞けないといいますか、素直にきけなくなっている私たちに「素直に聞け」だけではあまりにも冷たいと思うのです。また「素直に聞く」とは、どのように聞くことなのでしょうか。

 そこで、今一度、わかったこととして通りすごしてきました「聴聞」について、その字の意味から考えてみたいと思います。『新漢和辞典』(大修館)には、「聴は耳声を待つ、聞は声耳に入る」とあり、『諸橋徹次・大漢和辞典』には、「往を聴という。来を聞という」とあります。すなわち、「聴」は、ききたいという気持ちでききに行くことであり、「聞」は、きこえてきたものをそのまま受け入れるということであります。

 私たちがききたいと思うのはどんな時でしょうか。何もないのにききたいと思う人など一人もいないでしょう。何か問題があって、それも自分ひとりで手におえない問題があって、はじめてききたいという思いが湧いてくるのではないでしょうか。いや、ききたいという思いの前に、きかづにおれないという思いが先でしょう。

 自分一人でかかえきれなくなった胸のうちを、誰かにきいてほしい。そして、できれば自分が今かかえている問題をのりこえる力になるような言葉に、遇いたいという思いが「聴」になるのでしょう。

 生きていく力になる言葉を、阿弥陀如来の本願に親鸞聖人のお聖教に求めるところに「聴」の場があるのです。

 ところが、自分一人でかかえきれなくなった胸のうちとか、自分が今かかえている問題といいましたが、それらの問題はどこでおこるのでしょうか。私たちの問題の大半は人間関係に起因します。人間関係によって成り立っている場が社会です。私たちの社会は人間だけで構成されているわけではありませんが、社会の問題は人間の問題であります。私たちの問題は、この人間の問題、社会の問題と決して無縁ではありません。ですから、社会の問題と全くかかわらないところで「聴」が成立することなど考えられません。「聴」が成立しなければ「聞」も実現できません。社会の問題にかかわらないところに聴聞があったというならば、少し極端な言い方になりますが、内省的精神訓話か、現実を忘却させるお伽話をきいて、仏法聴聞と思い込んできたのではないかと思います。

  話をもとにもどしますと、自分の問題をかかえて本願に問い、聖人のお言葉に問うていくとき、聞こえてくる声があるのです。それがほかでもない阿弥陀如来の「どんなときでもあなたを一人にしません。いつも私がいっしょですよ」

の声であります。その声が聞こえてきたとき、はじめて見えてくる世界があるのです。

 阿弥陀如来のよび声が聞こえた時、自ずからあきらかになってくる世界、それが信心の世界であります。では、よび声を聞いて何があきらかになるのでしょうか。それは、「どんなことがあっても私を捨てることのない確かな如来さまのいてくださったこと」であります。この確かな如来さま、それも「お前がほっておけない」と案じてくださる如来さまのいてくださったことがあきらかになれば、今までのように「俺が、私が」が、いかに間違っていたかということを、文字通り素直に認めることができるのです。

 さらに、いいますと、「俺が、私が」が、いかに間違ったものであったかということが本当に受け取れたとき、私たちは、今まで見ているようでまともに見ていなかった周りの多くの「いのち」に出遇うことができるのです。

 「聴聞」する以前の私、信心の世界に出るまでの私は、周りの人のこと、社会のことを言っていても中味はすべて自分のことだけです。なぜ喜んでいるのか、自分の「我」が通ったからです。なぜ怒っているのか、自分の「我」が通らないからです。結局、自分の「我」の殻の中で一人相撲をしていたのです。

 信心とは、如来に遇い、私自身に遇い、私の周りの「いのち」に遇うということです。

 私の周りの「いのち」と出遇う信心が、社会のいろいろの問題と無縁であるはずがありません。「きいた、きいた」といいながら、社会の問題が目に入ってこない「聴聞」などあるはずもありません。

10 お浄土と往還の回向

 最近知り合いの人のお葬式で、「還浄されました」というご挨拶を聞いて「お浄土」、「往還回向」という言葉を思い出しましたが、よくわかりません。教えて下さい。

「還浄」とは「お浄土に還る」ということですから、お葬式のご挨拶に、「還浄されました」といわれた方は、きっと普段から浄土真宗の教えを聞いておられる人でしょう。

 そこで、まず「お浄土」についてですが、親鸞聖人は、「浄土」を「無量光明土」であると教えてくださいました。

 「無量光明土」とは、「無量のいのちが光り輝いている世界」ということです。『阿弥陀経』の「お浄土」の有様を説く中に

 池中の蓮華 大きさ車輪の如し 青色には青光・黄色には黄光・白色には白光あり 微妙香潔なり

のお言葉にありますように、それぞれが、それぞれの光を輝かして、お互いの色をよく美しく照らしあっている世界が「お浄土」なのです。

 私たちのこの世界は、お互いに、お互いの色を出させないように邪魔しあったり、殺し合っています。「お浄土」は、本当の世界を教え、自らの色を出せずに呻吟している私たちを迎え、私たちの「いのち」を輝かせてくださる世界なのです。

 この世界で「私が、私が」と、小さな殻に閉じこもって、自らの色を輝かすこともなく、他の「いのち」の輝きをも邪魔したり、殺しているわたしたちが、み教えを聞くことによって如来に遇い、自らの間違ったあり方に目覚めることがなにより大切です。この如来に遇い、自らに目覚めた相が、親鸞聖人の教えてくださった信心です。この信心の人は、「心を弘誓の仏地(お浄土)に樹て」

て生きる人ですから、この身終わると同時に、お浄土に還るのです。

「往還回向」とは、親鸞聖人が

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種類の回向有り、一には往相、二には還相なり

                      (『顕浄土真実教行証文類』)

とあります。「往相回向」と「還相回向」のことです。

「往相」とは「往生浄土の相状」ということであり、「還相」とは「還来穢国の相状」ということです。「回向」について、親鸞聖人は

「回向」は、本願の名号をもって十万の衆生にあたへたまふ御法なり

と教えてくださいました。

 ですから、「往相回向」とは、念仏のおはたらきによって、私たちが「お浄土」への人生を歩ませていただくことであり、「還相回向」とは、やはりお念仏のおはたらきにより、この世から逃げることなく、この世を力いっぱい生き抜かせていただくことです。

『正信偈』には

 往還の回向は他力に由る。

とお示しくださいましたように、私たちが「お浄土」に往くのも、「この世」に還ってくるのも、如来のおはたらきによるのです。

 なお、「還浄」の「還」は、「お浄土」に還ることであり、「往還」の「還」は「この世」に還ることですから、同じ「還」でも、その方向は全く逆なのです。

また、「往相回向」、「還相回向」の関係について、親鸞聖人は

 南無阿弥陀仏の回向の

  恩徳広大不思議にて

  往相回向の利益には

  還相回向に回入せり

 往相回向の大慈より

  還相回向の大悲をう

  如来の回向なかりせば

  浄土の菩薩はいかがせん

とうたわれています。すなわち、お念仏のおはたらきによって、「お浄土」の人生を歩ませていただくがままが、ひるがえって、「この世」を力いっぱい生きる人生へと展開すると讃えられ、また「お浄土」への人生を歩ませてやりたいという阿弥陀如来の大きな慈しみのお心が、「この世」を力いっぱい生き抜く身にしてやりたいという大悲となって、私たちにとどけられている、とあきらかにしてくださったのです。ですから、親鸞聖人は、さらに

往相・還相の回向に

 まうあはぬ身となりにせば

 流転輪廻もきはもなし

 苦海の沈淪いかがせん

無始流転の苦をすてて

 無上涅槃を期すること

 如来二種の回向の

 恩徳まことに謝しがたし

と嘆じ、私たちが迷いの世界を離れ、さとりの世界に生まれるには、ひとえに、如来二種の回向、すなわち往相、還相の回向によることをあきらかにしてくださいました。

 そこには、私がどうよろこんだか、どう思ったかというようなことは一切用事がありません。ただお念仏のおはたらき、すなわち他力回向によるのです。

 私たちは、そのおはたらきをよろこばせていただくだけなのです。