仏教婦人会の会員です。子どもに、「如来様はなぜ右手をあげて、左手を下げているの」とか、「如来様は男なの、女なの」と、質問を受け、どう答えてよいかわかりません。
阿弥陀とは、無量寿・無量光という意味の古いインドの言葉です。無量寿とは永遠の「いのち」ということ、無量光とは無限のはたらきということです。
ですから、阿弥陀さまとは、永遠の「いのち」と無限のはたらきをもった仏さまということです。永遠の「いのち」と無限のはたらきをもった阿弥陀さまは、「俺が」・「私が」という小さな殻に閉じこもって窮屈な生き方をしている私たちに、「垣根のない、わけへだてのない広い世界にでていらしゃい、一ついのちを生きる御同朋と共に生きよう」と、よびつづけてくださっています。
阿弥陀さまとは、小さな殻に閉じこもっている私たちのありのままの相と、阿弥陀さまの本当の世界を教えてくださる大いなるはたらきです。この大いなるはたらきは、色もなく形もありませんから、私たちは見ることができません。
それで、色もなく形もない、大いなるはたらきである阿弥陀さまは、私たちにわかるように姿をあらわしてくださったのです。
この姿をあらわしてくださった阿弥陀さまが、朝夕お礼させていただいているご本尊だす。ですから、ご本尊の阿弥陀さまは、私たちに本当のことを教えてくださる大いなるはたらきが、姿をあらわしてくださったのですから、男とか、女とかということでわありません。阿弥陀さまは、私たちにわかるように、人間のお姿としてあらわれてくださった方ですから、男でも女でもなく、真実そのものなのです。
次に、如来さまの手はということですが、あの手は阿弥陀さまの大いなるはたらきをあらわすものです。すなわち、あげた右手の相を「招喚の印」といいます。「招喚の印」とは、小さな殻にこもっている私に、「広い世界にでていらしゃい、御同朋と共に生きましょうよ」と招き喚んでくださるサインです。
野球の選手が監督のサインに従って、精一ぱいプレイするように、私たちも、
阿弥陀さまの左右の手で示されたサインを頂いて、精一ぱいこの人生を生きればいいのです。自分で、どうだこうだとはからうことが、一番間違いないのです。「はからいをすてて弥陀に帰す」、すなわち、自らの計らいを捨てて、阿弥陀さまのサインどうりに、力一ぱい生きるとき、人生が自ら開けてくるのです。
ご本尊の阿弥陀さまは、左右の手で私たちに、「小さな殻から出て力一ぱいいきよ」と、サインを送りつづけてくださっているのです。
お葬式に読むお経、朝夕のおつとめに読むお経についておたずねでしょうか。
それとも、ご先祖が安らかに成仏(真宗ではいいませんが)するためのお経、水子の供養をするときのお経というようなおたずねでしょうか。
どちらにしましても、お経とは何か、なぜ読経するのかということがはっきりしませんと、いつまでも、このような疑問が残ると思います。
そこで、まずはじめにお経とは何か、ということからお話をしたいと思います。
お経とは、御釈迦さまのご説法なのです。お弟子の質問や、在俗の信者の悩み苦しみに応えてくださった、お釈迦さまのお話が、お経なのです。では、お経は、どのような質問や、悩み苦しみに応えられたのでしょうか。お経といいましても、沢山のお経がありますので、浄土真宗で読ませて頂いている「浄土三部経」の『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』についてお話してみましょう。
『無量寿経』は、いつもお釈迦さまのそばにいた阿難さまの「今日のお釈迦さまのお姿はいつもと違います。いつもにましてお顔が輝き、身が光っています。どうしてですか」という質問に応えて、話されたものです。お釈迦さまは、阿難さまの問いを非常によろこばれて、「実は今、阿弥陀さまのことをおもっていたのだ」と、話しはじめ、阿弥陀如来の四十八の願いを説いてくださったのです。この阿弥陀如来の四十八の願い、なかでも第十八の願いを聞くことによって、私たちは何ものにも惑わされることなく、お浄土に生まれる人生が実現するのです。
『観無量寿経』は、お釈迦さまが、当時インドで一番大きかったマガダ国の王妃であるイダイケ夫人の悩み苦しみに、応えられたものであります。わが子アジャセから幽閉されたイダイケ夫人の「悩み苦しみのない世界に生まれたい」という願いにたいして、「お念仏申すだけで、あなたの願いが満たされますよ」
と、お釈迦さまのお話くださったのが、『観無量寿経』です。
『阿弥陀経』は、高弟の舎利弗さまを相手に、お釈迦さまが、自ら問い、自ら答えられたものです。「阿弥陀さまの世界とは」・「阿弥陀さまとは」と、お釈迦さまは、自ら問い、自ら答えられました。
このようなお経をなぜ読むのかといいますと、
親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだに候はず
という『歎異抄』のお言葉もありますように、先祖の供養のためということでは決してありません。
蓮如上人は
他宗には親のため、また何のため、なんどとて念仏をつかふなり、聖人の御一流には弥陀をたのむのが念仏なり、その上の称名は何ともあれ、仏恩になるものなり (『蓮如上人御一代記聞書』)
と教えてくださいました。
お経は念仏に極まりますから、念仏というところをお経と入れかえて、『歎異抄』のお言葉、蓮如上人のお言葉を頂けばいいのです。蓮如上人は、弥陀をたのむ(如来さまをお心に信順する)がお経であり、お経をあげることが仏恩(如来さまのご恩をよろこぶ)になるといわれたのです。
「弥陀をたのむ」とは、お経を読ませて頂くことによって、本当に確かな「いのち」のよりどころは、阿弥陀如来であったということを知らせて頂くことです。そして、いよいよ弥陀をたのみとし、力にすることが「弥陀をたのむ」ということです。また、お経を読むということは、阿弥陀如来のご恩、お釈迦さまのご恩をよろこばせて頂く思いを、身にかけてあらわすことになるのです。
ですから、どの時にどのお経ということはありませんが、私たち先輩にならって、お葬儀には、親鸞聖人のおつくりくださった『正信偈』、法事には、『浄土三部経』朝夕のおつとめも『正信偈』をあげさせて頂きました。
また、ご先祖のため、水子のためというようなお経はありませんが、ご先祖をしのび、水子を思って、今、ここに生きている自分がお経に遇わせて頂き、おすくいにあずかるのです。