14 供養すれば成仏するのか

 暗いところや、お仏壇の前が怖いのです。死んだ人が成仏できず迷っているということも聞きますが、真宗では成仏をどのように考えればいいのでしょうか。また、亡くなった人をどのように供養すればいいのでしょうか。

 幼児の頃に、暗い所からオバケガが出るとか、お仏壇の中から死んだおじいちゃんが迷って出てくるというお話を聞かされた人は多いと思います。

幼い心に焼きついたことは、なかなか消えません。暗い所に行くたびに、また、お仏壇の前に行くたびにその話を思い出し、背筋が寒くなるという人は、あなただけではありません。冗談のつもりでおどかした大人の言葉が、いつまでもそれを聞いた人を苦しめるのです。実は、私もそのようなことがあるのです。

私は暗いところや仏壇の前ではありませんが、夜中にトイレに行くのが怖いのです。子供の頃に、父が私をカラカッて言った言葉が、四十を過ぎた今でも私を恐れさせるのです。夜中にトイレに行こうとする幼い私に、父は「トイレに行ったら、恐ろしいおじさんが『誰じゃ』というぞ」というようなことを言って、怖がる私をおもしろがったのです。

 おもしろ半分に言った父の言葉が身にしみついていて、今でも夜半にトイレに行くのが恐ろしいのです。あなたにも幼い頃に、きっとこれに近いことがあったのではないかと思います。

 私は、お念仏申しながらトイレに行くのです。自らとなえるお念仏が、「私が一緒ですよ。私がいつも護っていますよ」という阿弥陀如来の声となって聞こえてくるとき、私の恐怖感は去っていきます。

 あなたも暗いところやお仏壇の前で恐ろしいという思いになられたら、お念仏申してください。きっと「私と一緒ですよ。私がいつも護っていますよ」というあたたかい阿弥陀如来のお声が聞こえて来るでしょう。阿弥陀如来のお声が聞こえてくれば、あなたの恐怖感も消えていくでしょう。

 なぜ、こんなことを申すかといいますと、恐ろしいという感情は、理論ではどうにもならない問題だからです。頭では、暗いところやお仏壇の前が恐ろしい場所ではないとわかっていても、どうしようもないのが、この種の恐怖感です。だから、理論的に答えても、あなたの恐ろしさはどうにもならないと思いましたので、お念仏申すことをお勧めしたのです。これからは、恐ろしいということがあったら、いつでもどこでも、お念仏申してください。きっと、お念仏があなたの恐怖感を取り除いて下さいます。

 次に、死んだ人が迷うということと、供養するということについて、お話してみましょう。

 昔から、「親は子に迷う」ということをいいます。どれほど賢明な親でも、自分の子供のことになると、本当のことが見えなくなって迷うというのです。ですから、亡くなった人が迷うということがあったら(そんなことはないと思いますが)後に残した子や孫のために迷うのです。後に残った子や孫が自らを見失い、生きる方向を見失ってフラフラしているならば、そういう子や孫のことが心配で、亡くなった人が迷うということになるのでしょう。

 ですから、亡くなった人が迷うのでなく、本当は、生きている人間が迷っているのです。亡くなった人まで迷わせるような生き方をしている人間が、亡くなった人をどうにかしてやろうというならば、これほどおかしな話はありません。 自分がしっかりとみ教えを聞き、み教えに随順して真っ直ぐに生きることが、何より大切です。

 供養とは、おうやまいの心をもの等を供えてあらわすことです。亡くなった人の供養とは、亡くなった人を偲び、亡くなった人の生前のあり方を学ばせて頂き、亡くなった人をおうやまいすることです。

 最後に、成仏ということですが、仏とは「真実に目覚めた人」のことであります。成仏には、欲や怒りの心にふりまわされて真実を見失っている私たちが、欲や怒りの心に振り回されずに真実を見、真実に生きる身になることです。それが仏に成るということです。

 悲しいことですが、私たちはこの身をもっている間、欲や怒りのない心がなくなりませんから、仏に成ることはできません。しかし、私たちはお念仏申すことによって、間違いなく仏になる身(正定聚)にしていただくのです。

 お念仏は、「どんなことがあってもあなたを護り、あなたを必ず仏にする」という阿弥陀如来の大いなるおはたらきなのです。