20. 恐れなき人生を生きる

 親鸞さまのみ跡を慕うものの務めというようなものがあるのでしょうか、教えて下さい。

 主上・臣下 法に背き義に違し、忿を成し、怨みを結ぶ。

                      (『顕浄土真実教行証文類』)

 これは、親鸞聖人が三十五歳で越後にご流罪になられたときのお気持ちを、五十歳を過ぎて記されたお言葉です。「天皇はじめ、その臣下のひとたちは、真実の法に背き、世の中の正義に違い、理由のない忿や怨みをもってことを行っている」というお言葉です。

 二十年近く前の出来事を、これだけ激しいお言葉で語られる親鸞聖人のお心のうちに、何があったのでしょうか。

 それは、真実をゆがめるものに対しての、憤り以外のなにものでもありません。「どんなことがあっても、私はあなたを見捨てません。他人の目や、迷信・俗信等に惑わされず、頂いた生命を力いっぱい生きなさい」と、喚びかけてくださる「南無阿弥陀仏」を唯一つの拠りどころに、この人生を生き抜きますと、自らの人生を大切に生きるものを、「良時・吉日を言わないから」、「天神地祇をあがめないから」、「卜占祭祀をしないから」という理由にならない理由によって、流罪に処したもの、文字通り真実を踏みつけるものに対しる憤りが、この聖人のお言葉となったのです。

 この聖人のお言葉を、私たちは今一度、身にかけて味わい直してみなければなりません。

 聖人のお流れをくむと自認する私たちが、日常生活において、わが身をどのように処しているのでしょうか。

 子や孫の結婚式があるというと、まず暦をめくって、日の良し悪し(あるはずもないこと)を確かめて日取りを決め、葬儀は友引がどうのというようなことならば、聖人の憤りを、あざ笑う行為としか言いようがありません。

 仏さまは拝むもの、神様はあがめるものと使い分け、何の矛盾も感じないようでは、聖人の血の出るような叫びを、他人事と聞きながしているとしか言いようがありません。

 何かあると「やれ占ってもらいたい」、「やれ拝んでもらいたい」と、走り回って「墓がどうの」、「印鑑がどうの」と、墓相・印相にふりまわされているようでは、聖人のお心を踏みにじっているとしか言いようがありません。

 かなしきや道俗の

  良時・吉日えらばめし

  天神・地祇をあがめつつ

  卜占・祭祀つとめとす

 と、いわれた聖人の悲しみを、今一度、しっかりと聞かせて頂くと共に、お念仏にでもあったものの、何ものにも惑わされない力強い生き方を、一人でも多くの人に伝えていくことこそ、聖人のお流れをくむものの務めではないでしょうか。