他の宗教の救いの内容については、一概にこうだとはなかなか言えません。私たちの周りりを見ただけでも、どれくらいの宗教があるでしょう。
病気治しをかかげて伝道する宗教もあれば、憑物を落とすことをセールスポイントにしている宗教もあります。その他、商売繁盛、合格祈願、水子供養等を売りものにして信者を集めている宗教もあります。このような多くの、またそれぞれ特色のある宗教を一概に論じることはできませんし、いわんや、その救いを一括して論じることは到底不可能です。
しかし、一般的なことでいいますならば、仏教以外の多くの宗教は、私たちの願いが満たされたとき、自分の祈りが神に通じたときを「すくい」というようであります。しかし、仏教の「すくい」は、自らの目覚めをぬきにして説かれることはありませんから、自らの上になんの目覚めもなく、自らの願望をそのまま安易に肯定して、すくいを語ることはありません。また、仏教はいろいろなものに束縛されているわたしたちを、解脱させることを目的にした教えですから、救いといっても解脱、今の言葉で言うと、諸々の束縛から解放されるということなのです。
あまりよく知らずに他の宗教のことをとやかくいいますと、他の宗教の人たちを知らず知らずに傷つけることになりますので、他の宗教のことはこれぐらいにさせていただきます。
浄土真宗でいう「すくい」ということについてお話させていただきますと、親鸞聖人は、「すくい」ということを、「救」・「拯」・「済」の字で明らかにしてくださいました。そこでこれらの字の意味を考えながら、親鸞聖人が明らかにしてくださった「すくい」について考えてみたいと思います。
まず「救」ですが「救護」と熟語されますように、護られていることに目覚めることによって、諸々の束縛から解放されるということです。護られているとは、誰が、誰に、何から護られているのでしょうか。
親鸞聖人は、阿弥陀如来は「信心あるひとをばひまなくまもりたまふなり」(一念多念証文)と明らかにし、さらに
まもるといふは、異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさへられず、天魔波旬にをかされず、悪鬼・悪神なやますことなしとなり。
と教えてくださいました。このお言葉の意味を、現代の私たちの生き方にそって述べますと、日のよさあしさをいったり、占いやまじないに走っている人たちが阿弥陀如来の「我よく汝を護らん」のお心に遇う(信心)ことによって、なにものにもまどわされない人生をたまわるということです。すなわち、日のよしあしにまどわされず、墓相、印相にまどわされず、崇りや霊も恐れない生き方が、阿弥陀如来に護られることによって恵まれるのです。それが「救」なのです。
つぎに「拯」ですが、この字には「すくう」という意味と共に「あげる」という意味がありますから、文字通り「すくいあげる」ということなのです。誰を、どこから「すくいあげ」てくださるのでしょうか。まわりのすべてのものを飲み込んでしまう大河のような貪りの心の中でおぼれている私たち。すべてのものを焼き尽くす大火のような瞋りのなかで身をこがす私たち。すなわち、煩悩の水火の中でのたうちまわる私たちを、阿弥陀如来は「すくいあげ」てくださるのです。
私たちは自分の煩悩にすら執着して、煩悩の底なし沼に沈んでいきます。
自分の貪りを当然とうけとめ、自分の瞋りを正当化していくのが私たちです。
自らの煩悩を当然と受けとめ、正当化していくままが、煩悩の底なし沼に沈んでいく姿なのです。真実の、み教えを聞くことによって、こんな自分の姿が知らされ、こんな自分を案じて抱きしめてくださる阿弥陀如来に目覚めるとき、私たちは、自分の煩悩を正当化できなくなります。自らの煩悩を正当化する「我」がはたらかなくなると、阿弥陀如来のはたらきによって、自然に煩悩の泥沼から解放されるのです。このように、自分の煩悩から解放されるのが、「拯」です。
「済」は「わたる」とか「わたす」という意味です。「救済」「拯済」と、「救」や「拯」と熟語されます。「救」・「拯」がそのまま「わたる」人生となるということなのです。どこから、どこに「わたる」のかといいますと、「迷いの世界」
(穢土)から、「さとりの世界」(浄土)に「わたる」ということです。
ですから、浄土真宗の「すくい」とは、阿弥陀如来のお心に遇って(信心)「まもられ」・「すくいあげられ」て、浄土への人生を歩ませていただき、この身終わって仏に成らせていただくことなのです。