大学入試に失敗した子どもの心を、仏教婦人として、どう受け止めてやったらよいでしょうか。
大学入試が、子どもの心身にどれほど大きな負担になっているかについては、身近におられるお母さんが一番よくご存知でありましょう。いわんや、その入試に失敗した子どもの内面は、筆舌に尽くせないものがあると思います。
今年の春も、高校を卒業したばかりの少年が、親友を母校のグランドで、顔がわからないぐらい、鈍器でめった打ちにして殺したという悲しい事件がありました。
親友は志望校に合格し、本人は国立大の受験に失敗しました。親友を失うのを恐れ、親友の本当のことが言い出せずに、「合格」したと取り繕ったのですが、すぐに見破られ、みんなの前で、「うそつきや。国立大に通るはずないやないか」といわれたのだそうです。私は、その時本人はどんな気持ちで、親友の言葉を聞いたのかと思うと、胸の詰まる思いがします。
取調べにあった捜査官は、「唯一の親友が、あっという間に手の届かない遠い場所にいってしまった喪失感。その距離を殺人という手段で一気に縮めようとしたのか、それにしても」と述べています。
また、上智大の福島章教授(犯罪心理学)は、「この年齢の青少年は心理的に不安定、動機と結果がつながらず、小さな動機が大きな結果になるケースも多い」と述べ、さらに「この世は、同性の親友の方が異性より大事。友情こそが愛情より優れているとの評価判断がある。内気、非社交的な子ほど、できた親友を大切にし、別離も悲しむ。その気持ちが相手につながらない場合、心理的な危機に陥り、激情にかられることもある。ただ、殺人までに到るケースはまれなのだが」と話されています。
この事件は、福島教授のいわれるように、「まれなケース」かもしれませんが、少なくとも、入試に失敗した子どもの内面には、ひとつ間違えば殺人事件にまで走らせかねない焦燥感、孤独感、喪失感、敗北感等がうずまいているのです。
そのような様々な思いの葛藤の中で、苦しみ悩んでいるものにとっては、「そっとしておいてほしい」という思いと、「一人でいたくない、話し相手がほしい」という真反対の思いが交差していることでしょう。
そこで、母であり、仏教を聞いてきたものとして、どう接したらいいのかということになるのですが、その前に仏教のものの見方、考え方について、今一度復習しておきたいと思います。
まず仏教は人間を一面からだけ見るのでなく全面から見るということです。一点において人間を見、一点が優れていれば、優れた人間、一点が劣っていれば、劣った人間というような見方を仏教はしません。文字通り、青色の花には青い光があり、黄色の花には黄色い光があり、赤色の花には赤い光があり、白色の花には白い光がある(阿弥陀経)のです。これが仏教のものの見方です。
また、仏教は人生の一断面で、人間を見るようなことはしません。釈尊は「人生は苦」のお言葉で、人生は思うようにならないものがあると教えてくださいました。
人生には、文字通り、山あり谷ありであります。それも思いがけないところで山にぶつかり、思いがけない時に谷に遭遇して、涙しなければならないことが多いのです。
人生が順調にいくからと有頂天になり、人生が思うようにならないからと、あたりちらして自己を見失うことが一番問題なのです。いろんなことにぶつかって、私たちは自己を見つめ直すことができるのです。人生の壁にぶつかってつぶれる人もいますが、壁にぶつかって今まで以上にたくましく成長する人もいます。
人生を一断面でみて、それを人生のすべてと思い込むようなものの見方が、一番間違っているのです。一つひとつのぶつかりを超えていくのが人生であるということを、釈尊は「人生は苦」といわれたのです。
以上のような仏教のものの見方、考え方をふまえて人に接することの出来る人が、仏教婦人なのでしょう。それは何も入試に失敗した子どもに接する時だけのことではありませんが、特に、はじめて人生の壁にぶつかって、敗北感なり、孤独感にうちひしがれているものにとって、仏教のものの見方、考え方に立ってあたたかく接してくれる人があるほど心強いものはないと思います。
もっといいますと、入試に失敗した子どもよりも、周りの人が、一面だけで人間の価値を決めない、一断面だけで人生をうんぬんしない仏教のものの見方、考え方をしっかりと実践することが大切です。周りの人のしっかりしたものの見方、考え方が入試に失敗した子どもの何よりの支えになると思います。
周りの人が、必要以上に気を使うことが、一番こどもにはつらいと思います。
仏教を聞いてきたものが、本当に仏教を聞いてきたかどうかがためされる時です。仏教婦人が仏教婦人として、お子さんの心を受け止めてやることだと思います。