16 真俗二諦論とは

この頃、真俗二諦論と言うことをよく聞きますがどういうことなのでしょうか。

 浄土真宗本願寺派とは、どういう宗教であるかを規定したものが、私たちの教団の「宗制」であります。合わせて申しておきますと、浄土真宗本願寺派という組織の運営の基本になりますのが「宗法」であります。この「宗法」にのっとって教団は運営されていますが、浄土真宗本願寺派の教義、本尊、聖教、宗風という宗教の中味は「宗制」で定められているのです。

 現在の「宗制」は昭和二十一年九月十一日に発布され、昭和二十二年四月一日から施行されましたが、明治十九年一月に制定された「旧宗制」の教義理解の基本的な枠組が、実はお尋ねの「真俗二諦論」なのです。この「旧宗制」の第二章に

 一宗の教旨は、仏号を聞信し、大悲を念報する、之を真諦と云い、人道を履行し、王法を遵守する、之を俗諦と云う。是即ち他力の安心に住し、報恩の経営をなすものなれば、之を二諦相資の妙旨とす。

とあります。これが、私たちの教団の教義理解の枠組であったのであります。ですから、この枠組から外れると異安心ということになります。

「真諦」とは、出世間的真理ということで、お浄土に生まれるには、信心正因・称名報恩の真理に乗っ取られなければならないと言うことなのです。

 「俗諦」とは、世俗的真理ということで、「人道を履行する」とは、道徳の実践であり、「王法を遵守する」とは、国の法律に従うということですが、その具体的内容は『教育勅語』でありました。

 明治二十三年に発布された『教育勅語』は昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで、日本国民のすべてがふみおこなうべき道徳規範として、絶対的なものでありました。その内容は、天皇(当時は現人神といった)は徳高く、国民は天皇の臣民である国民は、天皇に対して忠、親に対しては孝という「忠孝の道」こそ、人間の最高の生き方であると教えるものであります。すなわち「古今に通じてあやまらず、中外にほどこしてもとまらず」として、いつの時代、どの地域の人間にとっても、「忠孝の道」こそ、真理であると説いたのが、『教育勅語』であります。

 この真理とは、仏教でいう諦と言うことですから、「真俗二諦論」とは、お浄土に生まれるのはご信心、この世を生きるのは『教育勅語』という教義理解なのです。もっといいますと、お浄土に生まれるということに関しては、阿弥陀如来のみ教えに従い、この世を生きることに関しては、天皇に従えと教えるのが「真俗二諦論」であります。

 ここで注意してほしいことは、この世を生きることに関しては天皇に従えということを、裏返して言えば、阿弥陀如来のみ教えは、この世を生きることに関係のない教えであるということになります。すなわち阿弥陀如来のみ教えは、ただあの世に生まれるためだけの教えであると言うことになっています。さらに言いますと、このような理解に立つとき、お浄土は、ただの「あの世」ということにとどまって、「この世」に関係のない世界という事になってしまいます。

 敗戦によって「教育勅語」を失う(昭和二十三年六月九日の衆議院では廃される)と言うことは、多くの国民にとって、「この世」を生きる規範を失うということでもありました。国民の多くは、どう生きていいのか判らなくなりました。第二次宗教ブーム(第一次宗教ブームは幕末から明治維新、第三次宗教ブームは現在)は、このような状況の中で生まれました。

「真俗二諦論」で育てられた真宗門徒も、『教育勅語』を失うことによって、「この世」の生き方が判らなくなった人が多いと思います。そこで、“この世は新宗教、あの世は念仏”“この世は神様、あの世は阿弥陀様”“この世はお付き合い、あの世は信心”と言うようなところで収まってしまったようであります。

 「真俗二諦論」は、私達の身体の隅々まで、このように「この世」と「あの世」の使い分け、「社会の問題」と「信心の問題」の使い分けという思考性を知らず知らずのうちに植え付けました。

 それは、「私と教団の体質を改めよう」という教団の運動の中にも入り込んでいました。聞法・伝道は門信徒会運動、差別の問題は同朋運動という具合にです。ですから、多くの人は、どれほど聞法、伝道をしても、差別の問題が視野に入らず、自らのことにはなりませんでした。また逆に、差別の問題に取り組んできた多くの人も、自らの信心を問い直すと否みになりにくい状況がありました。そこに両運動を一本化しなければならなかった理由もあります。

 身近なところで言いますと、家庭に「仏壇」と「神棚」が並んでいても、何の矛盾もない体質、自ら「浄土」を願いながら、夫や息子が「靖国」に祀られていることに、何の疑問もおこらない体質、これらの体質を形成したもの、「真俗二諦論」的教義理解でありました。

 私たちは今一度、親鸞聖人が「ただ念仏して」とあかしてくださったみ教えを、本当に聞いてきたかどうかを、自らに厳しく問い直してみる必要があると思います。