24.お葬式の真の意義

 お葬式は何のためにするのか。

お葬式の真の意義を教えてください。

 お葬式がだんだん派手になっていくさなかで、お葬式のあり方がいろいろと話題になっています。最近、新聞の投書欄にも、「葬式無用論」をはじめ、種々の意見が出ています。

 私たちお葬式を執行する立場にあるものでも、時には、「葬式とは何か」と思わずにおれないようなこともあります。

 そこで、手元にある旺文社の『国語辞典』を開いてみますと、「死んだ人をほうむる葬式。葬儀。とむらい」とあり、また、「角川漢和中辞典」で、「葬」の字義を見ますと、「@ほうむる(ほうむ・る)。死体を土中に埋める。死体をおさめる。ほうむり。A人に知られないように物事をかくす」とあります。

 無量寿の「いのち」を恵まれ、不死の道を生き抜かしていただくという教え、すなわち往生浄土の教えが浄土真宗ですから、辞書にあるように、葬儀を「死んだ人をほうむる儀式」とか、「死体を土中に埋める儀式」ということではありません。

 では、浄土真宗では、葬儀をどのように理解するのがいいのでしょうか。

昭和六十一年四月に本願寺からだされた『浄土真宗本願寺派葬儀規範勤行集』には、

 

 葬儀は、故人に対する追善回向の仏事や、単なる告別の式ではなく、遺族・知友があいつどい、故人を追憶しながら、人生無常のことわりを聞法して、仏縁を深める報謝の仏事である。

 

と規定され、つづいて、

全般の荘厳についても、いたずらに華美に流れず。清楚簡潔のうちにも荘重になすべきである。また、各地に行われている誤った風習や世俗の迷信にとらわれないように心がけねばならない。

現在おこなわれている本宗葬儀の勤式は、第八代蓮如宗主の葬儀次第に準拠し、伝承されてきたものであり、他宗派でいう、引導をわたすことではない。

あくまでも、道俗ともに、念仏読誦して故人を偲び、これを縁として、仏恩報謝の懇念と、哀悼の意を表す儀式である。

 

と、心得が述べられています。

確かに、この通りですが、往生浄土の教えから、もうすこし葬儀の意義を考えますと、私は、浄土真宗の葬儀は、「栄転する方の送別の式」ということになると思うのです。

 往生浄土とは、一人一人が自分の小さな殻に閉じこもり、「私が、私が」と、自分本位に生きて、周りの「いのち」を傷つけている穢土(この世)から、それぞれが自らの「いのち」を精いっぱい輝かせて、おたがいの「いのち」を照らし合う浄土に向かって、この「いのち」を開いていただくということです。

 お母さんの小さなお腹から、広いこの世に「いのち」に恵まれながら、「私が、私が」と小さな「我」の殻をつくって、閉じこもっている私たちが、阿弥陀如来の「すべてのものを、ひとしくすくう」という広く大きな「まことの心」に遇って、みんなの「いのち」と共に、手をとって生きる世界のあることを教えられます。

 仏教婦人綱領でいいます「世界はみな同朋」の世界を開いてくださるのが、阿弥陀如来の教えなのです。ところが、そのことを教えられても私たちは、「この身」のある間、どうしても「この身がかわいい」の思いがとれませんから、「世界はみな同朋」と知らされながら、自分にするように、他の人にはできません。どこまでも、自分優先の生き方しか出来ません。

 そんな私が「この身」終わるとき、自分と他の「いのち」の間をさえぎるものが全くなくなり、自分と他の「いのち」を全く一つに見ることの出来る身となるのです。すなわち、自他不二の身を実現するのです。この自他不二の身の実現が「仏に成る」ということです。

 親鸞聖人は、み教えに遇って「私が、私が」という小さな「我」の世界から出ることを「即得往生」といわれ、「この身」終わって、自他不二の身への誕生を「難思議往生」とあかしてくださいました。

 往生浄土とは、このように小さな殻に閉じこもって、自分のことだけで明け暮れている私たちが、み教えに遇い、「この身」終わって仏にならせていただくのです。

 ですから、み教えに生きた方の葬儀は、「この身」終わって仏に成ってくださることを、共どもによろこぶ式ですが、そうはいいましても、顔を見られなくなる、ことばをかわすことができなくなる寂しさは、凡情としてどうしようもありません。しかし、それは、ただの寂しさでなく、大きなよろこびに変わる寂しさなのです。

 

 門弟の明法房(弁円さま)の往生のしらせを聞かれた親鸞聖人は、

 

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。      (『親鸞聖人御消息』)

 

と、お手紙に記されています。