“釈尊の教え”と一口にいいましても、その広さは、私たちが一生かかっても読みきれないぐらいの量があります。昔からこのことを「八万四千の法門あり」という言葉で伝えられてきました。
この多くの経典の中からまさしく私の依りどころとなる経典を明らかにしてくださったのが、法然上人です。
法然上人が明らかにしてくださった経典は、『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の
いわゆる「浄土三部経」です。親鸞聖人は、さらに
夫れ真実の教を顕さば、則ち「大無量寿経」是なり (教行信証)
と、三部経の中でも、特に『無量寿経』を真実の教えといわれるのです。
では、なぜ親鸞聖人は『無量寿経』を真実の教えと言われたのでしょうか。
『無量寿経』を説かれた時、釈尊のご様子がいつもと違いました。全身が悦びにあふれ、お顔は光り輝き、未だかつて見たこともない素晴らしいご様子でありました。それで、お弟子の阿難が「どうなさったのですか。今日の釈尊は、いつもの釈尊とはちがいますが」と、たずねました。すると釈尊は「よく聞いてくれた私がこの世に出てきたのはほかではありません。今からお話しすることが説きたかったのです。いよいよその時がきました。私が今から説く教えは、悩み苦しむ人々に真実の利益を与えるでしょう」とうれしそうに話されました。
これらのことから明らかなように、釈尊が一番説きたかったことが、残すところなく、説かれているのが『無量寿経』なのです。
そこで、親鸞聖人は、このお経に説かれていることを正しく受けとるだけで、私たちは、この人生を生きることのできる最高の宝物を頂くことができるとよろこばれたのです。
では、『無量寿経』には、何が説かれているのでしょうか。親鸞聖人は、
如来の本願を説くを経の宗致と為す。即ち仏の名号を以って経の体と為すなり
(教行信証)
と、明らかにしてくださいます。すなわち、『無量寿経』は、阿弥陀如来のご本願を中心として、南無阿弥陀仏の名号が説かれているのです。本願・名号につきましては、大切なところですから、項をあらためてお聞かせにあづかろうと思います。
『観無量寿経』は『無量寿経』で説き明かされた教えが、どのような人間の力となるのかを、イダイケ夫人という歴史上の人物を通して説かれた経典です。
『阿弥陀経』は『無量寿経』で説かれる南無阿弥陀仏の名号に間違いありません、名号を受けとりなさいと、十方の諸仏が証明し、すすめてくださる経典です。
仏教がむずかしいといわれる理由を考えてみますと、まず、一人ひとり宗教に対する先入観がちがうということにあると思います。
現世利益が宗教だと思っている人が、親鸞聖人の
仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となずけてぞ
千中無一ときらはるる
というお言葉にであえば、どうなっているのかと思うでしょう。
また、先祖供養が宗教だと思っている人が、『歎異抄』の
親鸞は父母の教養のためとして一遍にても念仏まをしたること末だ候はず
のお言葉を聞けば、びっくりされることでしょう。
精神修養を宗教だと思っている人も、『歎異抄』の
善人なほも往生を遂ぐ いはんや悪人をや
のお言葉にであえば、困惑する以外にないでしょう。
次に、私たちのものを見る方向と、親鸞聖人のものを見る方向がちがうということがあるとおもいます。
私たちは、常に自分中心に自分の場からすべてのものを見ています。親鸞さまは、如来さまの 目を通して、すべてのものを見ていかれました。このあたりの違いが、むずかしい理由になっている のでしょう。
また、問題意識なしに仏教を聞くので、話されている意味や内容がうけとりにくいということもあると思います。
しかし、何といっても、はじめて仏教を聞こうとする人にとってむずかしいのは、言葉の問題があると思います。
現代、一般に使われている仏教の言葉で、本来の意味で使われている言葉は皆無です。「仏」ということばにしましても、本来は目覚めた人、覚者という意味なのに、現代では、死者、目を閉じた人の意味になっています。また、「往生」という言葉にしても、「他力」という言葉にしても、本来、新しい生命の展開という意味、確かなものにささえられ力一ぱい生きる人生を開くものという意味が、現代では、それぞれ「生き詰まること」、「他人の力をあてにすること」の意味で使われています。これほど意味が違えば、通じないのは当然です。それで、むずかしいといわれるのでしょう。
これから記述する内容は第一部は、これから仏教を聞こうとする人のために、浄土真宗の基本用語を解説したものです。
第二部も、基本用語を補うものとして入れました。
第三部は、仏教を身につけて頂きたい、そのために考えてほしい生活のあり方を述べさせて頂いたものです。
これらの内容を理解して、より仏教を身近なものにして頂けたら何よりうれしいことでございます。
合掌
藤田 徹文
みなさんは、どう思われますか。「その通りだ」と思われる人もいるでしょう。また「すこし違うかな」と感じられる人もいるでしょう。
私たちは、「神仏」と、神と仏を無意識のうちに一つのものにしてしまっていますが、本来、仏と神は全くちがったものなのです。
仏とは、「覚者・真実に目覚めた人・真実に目覚めさせてくださる人」ということです。ですから、仏教とは、真実に目覚めた人の教えであり、真実に目覚めさせてくださる教えであります。
神については、日常生活の中で使われる場合はもちろんのことですが、宗教学の上においてもその内容は使う人によってちがいます。
太陽・月・山・川という大自然を神としておがむ人もありますし、祖先を神としたり、過去の英雄を神とあがめる人もいます。また天地創造の神を信じる人もいますし、中には動植物を神として拝んでいる人もいます。
東京大学に、岸本英夫という宗教学の先生がおられましたが、この先生は次の三点の内容を備えた観念を神という、と定義づけられました。
一、 超自然的な、独立の個体的な存在
二、 一般的な人間とは、はっきり異なるが、人間の心を理解する能力を持って
三、 いるという意味で人格的。
四、 強力な力と、自由な意思とを所有する。
みなさん、わかりますか。神とは、かくもわかりにくい存在なのです。
親鸞聖人は、「同じように宗教といっていても、にせの宗教もあれば、まにあわせの宗教もあります。真実の宗教を求めなければなりません」と、教えてくださいます。
にせの宗教とは、幸福や不幸の原因を、日や方角のせいにしたり、手相、印相、名前等のせいにしたり、中には先祖が迷っているからと先祖のせいにしたり、占ったり、祈ったりする宗教です。
まにあわせの宗教とは、理論的には間違いなのですが、私の実践不可能な教えのことです。話を聞いて、その通りだと、一時の気休めにはなっても、私の苦悩の本当の解決にはならないので、まにあわせの宗教といわれるのです。
真実の宗教とは、私自身と私の苦悩のありかを明らかにして、私自身と私の苦悩を引き受け、解決してくださる教えです。
親鸞聖人は、南無阿弥陀仏のみ教えが、その真実の宗教であると、九十年の人生をかけて教えてくださいました。このことを、皆さんといっしょに、これから聞いていきたいと思います。