信 心

かなわぬ時の神頼み」という言葉を、皆さんもよく耳にされるでしょう。

それは、人生が順調に行かない時、思いがけない障害にぶつかった時、自分一人の力では、どうすることもできない時、神様にお願いして、何とかしてもらおうと言う考え方です。私達は、強そうなこと言っていても、確かな拠り所をもたないと弱いものです。人生に行き詰れば、神頼みに走るのは当然です。

 しかし、このように、行き詰るたびに、神にすがることが信心かといいますと、そうではありません。

 困ったことが、ある度に、何かにすがって、一時しのぎをしながらの人生には本当の安定はありません。それは、揺れる電車に乗って、身体のバランスを崩すたびに、吊革にぶら下がって、一時的に身体を支えているのと同ことです。

一生揺れ続け、疲れ果てて終わるのが関の山です。

 宗教は、一時しのぎの道具ではありません。どんなことがあっても、びくともしない確かな拠りどころを明らかにするのが宗教です。

 この世が、どのような事態に至ろうとも、最後の最後まで自分を裏切ることのないもの、自分の確かな拠りどころとなるもの、それは、結局自分しかないと考えている人も多くいます。

 しかし、このような考えはどんなものでしょうか。確かに私達は、他人に裏切られるという悲しい経験を幾度もしていますが、それ以上に、自分を裏切って来たものは自分ではないでしょうか。

 今日、これだけはしておこうと思っていても、友達に声をかけられて遊びに行き、結局思った通りには出来なかったという経験を、皆さんもお持ちでしょう。そんな時、私達は、「付き合いも大切だからな」と、上手に思っていたことが出来なかった事の理由を付けるものですから、自分を裏切ったという思いをしないだけです。

 さらに言いますと、皆さんの今の若さも、健康も、生命も、確かなものではありません。いつまでも若くありたい、いつまでも健康でありたい、いつまでも生きていたいという、私達の切実な思いを裏切っていくのも、結局は自分なのです。

 他人は信用できないといいますが、それ以上に信用できないものが自分です。

信用できないものを信用できると思い誤って、自分に固執して、結局、自己と人生の方向を見失っているのが私達ではないでしょうか。信心とは、審らかになることなのです。真実のみ教えを聞いて、審らかになることが信心です。

 み教えに照らされて、私と、本当に確かなものが審らかになることが信心なのです。

 み教えによって、自分のありのままの相が知らされるのです。自分だけは信用できるというのは、自分が可愛いという思いからの買いかぶりであり、自分もあまり充てにならない、信用できないというのが、自分のありのままの相であったということが審らかになるのです。

 そして、本当に確かなものは、「どんなことがあっても、あなたを見捨てることのない私がいます」と呼び続けてくださる阿弥陀如来であったということが審らかになるのです。

 あてにならない私、確かな阿弥陀如来が審らかになれば、私の生き方も自から決まります。

 あてにならない自分をあてにせず、確かな阿弥陀如来をよりどころに、精一杯生きる以外に、私の人生はないと、自らの道が決まるのです。