「浄土真宗のお話を聞きますと、私たちのことを平気で悪人、悪人と言われます。私はそのように決め付けて言われるのが、お話を聞いていて一番いやです。どうして、私たちが悪人なのですか。」と、問う人は少なくないようです。
そこで、今回は、悪人と言うことについて考えてみたいと思います。
悪人に対する言葉は善人です。親鸞聖人はどのような人を善人と言い、悪人と言われたのでしょうか。
「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という有名な『歎異抄』の第三章には、善人とは「自力作善の人」であり、悪人とは「他力をたのみたてまつる」人間のことであるとお示し下さっています。
善人と言われる「自力作善の人」とは、自らの身体をたよりに、自らの精神力で悪を遠ざけ、善を行って、この人生を生ききっていく人です。
このように、立派な生き方をする人が善人です。私たちも、できることなら善人として、この一生を過ごしたいものですし、また、そのように過ごせたら素晴らしいと思います。
しかし、思いはそうあっても、私たちの現実はなかなかそうは行きません。
自らの身体を頼りにしたくとも、老・病・死がひたひたと、我が身をむしばんでいます。
若い若いと思っていた我が身に、いつの間にか老いが忍び寄って来ています。
元気だ元気だと頑張っていた我が身を、いつの間にか病が蝕んでいます。
自らの精神力でと力んでみても、その時々の状況に流され、その場の雰囲気に飲み込まれ、ついつい、してわならないことを行い、言ってはならないことを言い、思ってはならないようなことに心を占領されてしまうのが私たちの現状です。
悪を遠ざけ、善を行わなければならないことは十二分に解かっていても、気付いた時には、その反対のあり方になっている悲しい私たちです。
善人になりたい、善人として生きたいという思いはあっても、そうはなれない、そう生きれないのが私たちです。順境には強そうに胸張っていても、私たちの正体は、常に自らの身体に不安を持ち、周りの人の目や、諸々のものに気を使い、その時その場の縁に引かれて右往左往する弱い人間です。
一人になったらオドオドと周りを気にして、なかなか足が前に出ない弱い人間です。いや足が前に出ないだけならいいのですが、ついつい足が横の方に出てしまって、気付いた時には、してはならないことをしたり、言ってはならないことを言い、思ってはならないことを考えて罪を作り、悪を行っているのが私たちの実体です。
「つまらないことに気を取られず、やるだけのことをやって生きてごらん。その結果がどのようになろうとも、私はあなたを見捨てることはありません。二度とない人生です。力いっぱい生きなさい」と呼びかけ、支えてくださる阿弥陀如来のおはたらきがなければ、元気を出して生きることのできない弱い人間、すなわち、他力(阿弥陀如来の私を支えてくださるはたらき)がなければ、まともに生きることのできない弱い人間を、親鸞聖人は、悪人といわれたのです。
親鸞聖人は、他人事でなく「私は阿弥陀如来のおはたらき(他力)なしに生きれない悪人である」と言われました。