聴聞

 「聴く」というのが「‘75真宗青年の集い」洋上大会のテーマです。そこでこの大会テーマの「聴く」ということの意味するところを考えてみたいと思います。「きく」という字には「聴く」と「聞く」の二字があります。この二つの字の意味の違いと、その関係を考えながら、「聴く」ということの意味を明らかにしたいと思います。

 「聴く」にしましても、「聞く」にしましても、「きく」という言葉には、自分の知らないこと、自分の求めていることを尋(たず)ねるという意味があると思います。

 しかし、私たちにとりましてはこの知らないこと、求めることを素直に「きく」ということはなかなかむずかしいことです。自分の体面にこだわったり、いろいろなことにひっかかって素直に「きく」ということはむずかしいのです。だから逆に言いますと、「きく」という行為は、無意識ではありましても、その自分の内にある何か素直になれない頑なな心を超えていることになります。すなわち、「きく」という言葉の中には、自分と言う小さな殻を打ち破って、より大きな世界に出ると言う意味が隠されています。

 では「聴く」と「聞く」はどう違うのかといいますと、「聴く」というのは、きく意思があって注意してきくという意味ですし、「聞く」というのは、自然にきこえて来るという意味です。漢和辞典には「聴は耳声を持つ。聞は耳声に入る」(大修館・新漢和辞典)とも、「往を聴くという。来を聞くという」(諸橋徹次・大漢和辞典)とも説明されています。

 聴くとは、自分の今のあり方、今の生き方に自分自身が満足できなくて、何かを得たい、何かを求めずにおれないという気持ちから、「きく」という行為になった姿です。

 そこに耳が声を待つという姿勢も出てきますし、じっとしておれない「往」という行動も出てくるのです。

 「聴く」という言葉は、青年の研修テーマにふさわしい言葉です。なぜならば、「聴く」とは、若さの中にある行動力と、若さゆえに求めずにはおれないと言う姿勢が一つになった言葉だからです。人生を少しでも真剣に生きようとする青年にとっては、この「聴く」という行為は欠く事のできないものです。求めると言う姿勢と行動を失う時、青年は青年でなくなるからです。

 「‘75真宗青年の集い」を「聴く」というテーマで沖縄まで五日間の洋上研修の形式をとられたのも、この青年の青年らしいやり方と生き方に根ざされているのでしょう。

 では、私たちのあり方、生き方は「聴く」ということだけで充分なのでしょうか。そうではありません。「聴く」という素晴らしい生き方にも、気になる点が一・二あります。

 一つは、自分の求めたいものはこれだという意思が強ければ、強いほど、自分の意思にしばられて、「聴く」というふくらみはあるとしても、やはり自分という小さい殻に閉じこもる恐れがあるからですし、二つには、「聴く」という行動が、行動のみにとどまって、その根拠を見失うという恐れがあることです。ここに「聞く」ということが重要な意味をもってきます。

 聞くとは、自分の意思を超え、自分の小さな殻を打ち破ったむこうからきこえてくる声を、素直に耳に受け取ると言う行為です。私が往くのではなしに、自分の思いを超えてきてくださるものを受け取ると言うことです。親鸞聖人は「聞くとは信じてきくこと」(教行信証)だとおっしゃっています。

 「聴く」は「聞く」と一つになって全うされます。求めるという意志と行動は、その意志と行動を超えたものさえ謙虚に受け取る時に、その意志と行動はより素晴らしいものになります。「聴く」に始まる素晴らしい生き方が「聞く」によってより高次な生き方になるのです。

 では、「聞く」の内容は何でしょうか。きこえて来るものを素直に耳に受け入れるといいますが、一体なにがきこえてくるのでしょうか。親鸞聖人は、「聞くというのは、私たちが仏の願いの生起と本来を聞くことです」(教行信証)

と教えて下さっています。

 生起というのは、どうして仏が願いを起こされたのかと言うことで、仏が願いを起こされた理由は、私にあるのです。自分の置かれている位置と、生きる方向を見失っている私が、仏の願いが起こされた理由なのです。

 だから仏願の生起を聞くということは、私が私を聞くということです。本末とは、どのようにして願いを起こし、どのようになったかということです。一口で言いますと、仏願の本末を聞くとは、仏心を聞くことです。自分と言う小さな殻の向こうから聞こえてくるものは、自分自身の姿と、自分を生かしている仏心となのです。だから言葉を変えますと、「聞く」とは、自分自身に出会い、仏心に出会うことなのです。

 「聴く」という生き方を通して「聞く」に到るということは、求めると言う意志と行動において、私たちは一番に近く、一番解かっていると思っている、そして一番大切な自分に出会うということですし、同時に見失っている自分をつつみ、育み、生かして下さっている仏と出会うことなのです。

 聴聞という素晴らしい生き方が、「聴く」ということによって始まるのです。「‘75真宗青年の集い」洋上大会ででも、小さな自分の殻から、一歩踏み出し、より多くの友との出会いを通し「海」という大自然との出会いを通して、自分自身との出会い、仏と出会うことが、研修の狙いではないでしょうか。最後に、蓮如上人のお言葉を紹介します。

 「いたりてかたきは石なり、至りてやわらかなるは水なり、水より石を穿つ、

心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜらん。」といえる古き詞あり、いかに

不信なりとも、聴聞を心にいれもうさば、御慈悲にてそうろうあいだ信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきわまることなり

                     (『蓮如上人御一代聞書』)