私たちの人生に、確かなものは、何一つありません。
若さも、いつまでも続きません。いくら拒んでも老いはじわじわとやってきます。健康も確かなものではありません。一たび病が襲いかかってくれば、昨日までの健康が嘘のように、病床の人とならなければなりません。
大切な生命ですから、いつかは消えて行くのです。目先のことに追われて、忙しく動きまわっている時、私達は、この老・病・死を忘れています。
しかし、忘れていても、老・病・死はなくなりません。そこに、どうしようもない不安の根があるのです。
この不安と、どう向かい合い、どう克服するかが、私達の人生の大きな課題であります。
多くの人は、向かい合い直視する勇気がなくて、一生それらの不安から目をそらして生きています。
また、他の多くの人は、それらの不安から逃げ続けて生きています。
しかし、どれほど目をそらそうが、逃げ回ろうが、老・病・死は、私達を見逃してはくれません。
そのことを、私達は、百も千も承知のはずです。よく知っていながら、目をそらし、逃げまわり、それでいて内心は、何時であろうかと不安におびえて一生を送るとしたら、これほど情けない話はありません。
しかし、だからといって、老・病・死を直視するだけの勇気もなく、また、それらを克服する力もありません。生まれ難い人間に生まれ、沢山の生命を犠牲にし、その上、多くの人や物のおかげをこうむって生かされていながら、こんなことでいいのでしょうか。誰も、こんなことでいいと思っている人はいないでしょう。
いいと思っていないのにどうにもならずに、立ち竦むしかない私たちに、呼びかけて下さる声があります。「私がいますよ。やるだけやってごらん。どんなことがあっても私はあなたを見捨てません。さあ勇気を出して、一歩踏み出してごらん」という南無阿弥陀仏の声があります。
この南無阿弥陀仏に勇気づけられ、自らやれるだけのことをやって、せっかくの人生を生き抜こう。そうすれば、どこで、どのような形で一生終わろうとも、南無阿弥陀仏の働きによって、浄土に生まれさせて頂けるに間違いないのです。正しくお浄土に生まれさせて頂くに間違いのない仲間を正定聚といいます。
私達も南無阿弥陀仏の呼び声を聞き、そのお心を頂くだけで、正定聚に入れて頂くことができるのです。
確かなものが何一つない人生が、間違いなく浄土に生まれる確かな人生となるのです。もう、何も恐れるものはありません。老いが迫って来ようが、病が襲いかかって来ようが、また死に臨もうが、私たちは、自分のすべきことを、自分のやれることを、精一杯やり抜くだけです。何も心配はいりません。
確かな、確かな南無阿弥陀仏の如来さまがおってくださるのですから。