先日、ある教区の仏教壮年の研修会に寄せて頂きました。研修は「何故寺院に参らなければならないか」というテーマでした。みなさんこのテーマをどう思われますか。私は非常に悲しい思いがしました。
参る為に建てたお寺に何故参らなければならないかでは、あまりにも悲しいではありませんか。何故こんなことになってしまったのでしょうか。それは、私たちのお寺が何故建てられのかと言う事が、長い歴史の中でぼけてしまったからです。
親鸞聖人は一生涯、お寺を建てられませんでした。それなのに、現在では、私たちの本願寺派だけでも一万以上のお寺があります。これはどういう事でしょうか。
本願寺三代目の覚如上人は
和会する時は此土、他土一異に、凡聖不二なるべし、これによりて念仏修行の道場とて強ち局分すべきにあらざるか、然れども廃立の初門にかへりて幾度も為凡をさきとして道場と名づけてこれを構へ本尊を安置したてまつるにこそあれ、これは行者集会のためなり (改邪鈔)
と言われています。すなわち、浄土真宗のお寺は、誰もが遠慮なく集まれて、何でも話せる場であり、いろいろな話をとうして、阿弥陀如来のみ教えを聞く場です。みんなの人が人生を語り、み教えを聞く為に多くの人の力によってお寺は建てられたのです。
ですから、お寺に参る主役は、テレビのコマーシャルではありませんが、「あなたが主役」なのです。法要または法座はみんなの人がみ教えを聞こうという集まりです。それを他人事のように見過ごしているだけでは、あまりにも惜しいと思います。
あなたの為にお寺があり、あなたの為に法要、法座が開かれているのです。
そうは言いましても、「今のお寺は」、「今の法要・法座は」と、一言いいたい人も多いと思います。確かに、今のお寺、今の法要・法座は、みなさんにとって決して満足のいくようなあり方ではないと思いますが、みなさんが、お寺に、法要・法座に顔を出してくださる事により、本来の法要・法座に対する偏見は抜きがたいようであります。
ですから、法要・法座にお参りして下さいと言っても多くはお断りであります。そのお断りの理由はだいたい次の三つであります。本当はこのお断りの理由こそが、お寺に参らなければならない理由なのです。
一、
何も宗教の世話にならなくても、私は立派に生活しています
「苦しいときの神だのみ」を宗教だと思っている人の言葉です。
立派に生活しているとは、どういう事でしょうか。言葉の意味からいいますと、立派とは他人の世話にもならず他人に迷惑もかけていないということです。この意味がわかった上で、まだ立派に生活しているという人があれば、それはよほどうぬぼれの強い人であり、自己を見失っている人といわねばなりません。自己を見失っている人にとって自己を教えて下さる仏教が何より必要です。
二、
なんせ忙しくって、お寺に参るひまがありません
暇な人の時間つぶしを宗教だと思っている人の言葉です。
忙しいとは「心を亡している」という字です。ですから、忙しいとは自己を見失っているという事です。本当に危ない状態です。一時も早く、自己を取り戻してほしいものです。一体なんのために、忙しい忙しいと走り回っているのでしょうか。
三、
まだ、お寺に参るのは若すぎます
年寄りの死にじたくを宗教だと思っている人の言葉です。
宗教は人生に基礎をあたえるものです。建物でも、基礎をおろそかにしていれば、いくら見た目は立派でも危ないものです。まず基礎が大切。早ければ早いほどいいのです。
「若い時、仏法をたしなめ」という言葉もあります。
いろいろ話しましたが、理屈でなく、お寺の法要、法座に参ってください。