生まれ難い人間に生まれ、沢山の生きものの生命を頂き、また、多くの人やもののお世話になって、生かされている私です。
しかし、私たちは生かされているこの生命を本当に活かして生きているでしょうか、どうもそうでないようです。
なぜ、私たちは自らの生命でありながら、十分に活かしきることが出来ないのでしょうか。
それは、私たちが同時にいろいろなものに気を取られ過ぎるからです。周りの人の言葉や顔色を気にし、日のよしあし等の俗信や迷信を気にし、過去のあやまちや失敗を気にし、まだ来ぬ先のことを気にして、それらに気をとられている間に、時だけが空しく過ぎていき、自分の生命を活かしきるどころか、これということも出来ずに、年齢だけを重ねています。
こんな私たちを、「仏(阿弥陀如来)かねてしろしめして」(歎異抄)「いろんなことに気をとられずに、できる時に、出来ることだけでもやり抜いてこの人生を全うしなさい。たとえ、その結果、周りの人から中傷されることがあろうが、どのようなことになろうが、私はあなたを見捨てません。何の心配もいりません。やることだけどもやり抜いて、精一杯生きなさい」と、励まし、支え続けて下さるのです。この阿弥陀如来のお言葉を力とし、よりどころとして力一杯生きる。これが信心の生活であります。
自らの生命をホソボソとでも活かして生きることが出来るようになった。これほどの喜びがあるでしょうか。この喜びを一人でも多くの人に知ってほしいと思うのは当然です。
そこに、私の伝道がはじまります。み教えを仲間にすすめる。み教えの場に友を誘うという生き方が出てきます。信心の生活は、伝道せずにおれないという行動となって現れます。
また、信心の日暮らしをさせて頂く私たちには、常に「阿弥陀如来の力強いお言葉にはげまされ、支えられながら、私はまだ十分に生命を生かしきっていない。こんなことではすまない。恥ずかしい。」という思いがあります。
この「すまない、恥ずかしい」という思いが、このままでいいと居直りたい私を奮い立たせてくれるのです。
「こんなことではすまない。こんなことでは恥ずかしい。」何とか少しでも出来るところから改めていこう、完全なことは出来なくても、末通ったことはできなくても、できるだけの努力をして、自らを改めていこう。この世の中をすこしでもよくしていこうと、立ち上がらずにはおれません。それが親鸞聖人の教えて下さった「身をいとう」、「世をいとう」という生き方であります。
「いとう」とは、普通いやがるという意味です。いやだから、出来るだけの
努力をして改めていこうというのが信心を喜ぶものの生き方です。もし、いやだから目をそむけるとか、逃げるというような行動をとるならば、それは念仏者ではありません。
この世をしっかりと見つめ、この世にかかわっていくところに、「世をいとうしるし」すなわち、私たちの信心の生活があるのです。