響 流

 「響流」とは、「光願巍巍・・・・」ではじまる。「讃仏偈」の言葉である。「讃仏偈」には「正覚の大音は、十方に響流す」とある。

 「正覚の大音」とは、「真実の声」ということである。「十方」とは、東、西、南、北、東南、東北、西南、西北、上、下をいい、すべての世界ということである。「響流」とは「ひびき流布する」。「響きわたる」ということである。

 「讃仏偈」は「真実の声はすべての世界に響きわたる」と説くのである。

 しかし、私の口から出る声・耳に入る声は、「真実の声」ではない、人生を愁い、人生を嘆く声である。七高僧の一人、中国の善導大師こう劫より

このかた流転して、六道ことごとく皆逕たり、到る処余の楽無し唯愁嘆の声を聞く                        (定善義)

 

といわれている。人生につかれ、人生を愁嘆する声は自己の小さな殻の中でこだまする。

「真実の声」は、愁嘆の声のこだまする小さな殻にとじこもる私の上に響流するのである。静かに耳を傾けて聴こう、「真実の声」「南無阿弥陀仏」(私をほっておくことができないという呼び声)が聞こえて来るはずである。

 『無量寿経』には

 

今、仏に値うことを得て、また無量寿仏の声を聞く、心開明なることを得たり

微風徐く動きて、諸の枝葉を吹くに、無量の?法音声を演出す。その声流布して諸仏国に?す。その音を聞く者は、深法忍を得、不退転に住す

 

と説かれている。

「真実の声」・「南無阿弥陀仏」を聞くとき、愁嘆の声がこだまする私のちいさな殻が開くのである。私のとじた心が開き明るくなるのである。私が真実にであうのである。

 

 たとひ大千世界に

 みてらん火をもすぎゆきて

 仏の御名をきくひとは

 ながく不退にかなふなり   (浄土和讃)