私たちの場合、話し合いがややもすると特定の人の独演会になったり、めいめいが自分の言いたいことを言う方談会になったり、それぞれが近くの人とガヤガヤ話す雑談会になったり、時には、大声をはりあげての論争になったりします。
どうして、そうなってしまうのでしょうか。それは、「なぜ、私たちに話し合いが必要なのか」というカナメが忘れられているからです。
では、なぜ私たちに話し合いが必要なのでしょうか。
a)私たちは、それぞれ独自的な存在です。このことは素晴らしいことですが、反面危険なことでもあります。すなわち、同じ話を聞いても、それぞれ独自の聞き方をします。その聞き方が、常に正しいとはかぎりません。誤って聞けば、誤ったままいってしまいます。こんな危険が、話し合いにより修正されるのです。それで、蓮如上人は、
一句一言を聴聞するとも、ただ得手(自分の都合のいいように)に法を聞くなり、ただよく聞き心中の通り同行(同じ法を求める友)に合い談合(話し合い)すべきことなり (蓮如上人御一代聞書)
と話し合いをすすめられるのです。
b)私たちは、みんな自己中心的な存在であり、思い込みや偏見の強い生きものです。私たちは、この思い込みと偏見によって、自ら苦しみ、周りの人を苦しめています。また、私たちの思い込みと偏見は、常に自分を善の立場におき、他人を悪としがちであります。
話し合いは、こんな私たちの思い込みと偏見を破ってくれます。すなわち、話し合いによって、聖徳太子の、
人皆心有り、心各執れること有り、彼れ是むすれば則ち我れは非みす、我れ是むずれば則ち彼は非みす、我れ必ずしも聖に非ず、彼れ必ずしも愚に非ず、
共に是れ凡夫のみ
(聖徳太子十七条憲法)
と、いわれる地平が聞かれるのです。
c)私たちは、みんな自分の考えは誤っているのではないか、他の人はどう考えているのであろうかという不安をもっています。話し合いは、そういう不安を取り除いてくれます。
d)私たちは、みんな自分の小さな殻にとじこもり、変化を拒む傾向を持っています。この傾向が、私たちの精神的成長の大きな障害です。私たちは、変革を迫られると、変革を迫る相手を誤りであると決め付けたり、攻撃したり、そういう相手を避けたり、たとえ会っても口をきかなかったり、相手を正しく評価しなかったり都合のいいことだけを聞き、都合の悪いことは聞かないようにしたり、また、自分の殻を合理的に意味づけようとします。その結果、私は私、他人は他人というどうしようもない孤独の中に自分を追い込んでしまいます。
話し合いは、私たちのこの小さな殻をやぶり、私たちに大いなる成長をうながします。
以上のように、話し合いは、私たちの精神的成長と、「めざめ」にとって欠くことのできないものなのです。だからといって、なにもかたくなる必要はないのです。蓮如上人がいわれるように、
寒なれば寒、熱なれば熱 (蓮如上人御一代聞書)
と、そのまま心のとおり、すなおに自分を話せばいいのです。すなわち、
物を申せば心底も聞え、又人にも直さるるなり、ただ、物を申せ
(蓮如上人御一代聞書)
ということであります。