大変悲しいことですが、仏壇を死んだ人のおさまり場所、ご先祖の住家と考えている人は少なくありません。
申すまでもなく、私たちのお仏壇は、小さな自我の殻の中に閉じこもっている私を、「どんなことがあっても真実の広い世界にだしてやりたい」と、はたらいてくださる阿弥陀如来のおっていただくところです。
ですから、お仏壇を中心とすることは、阿弥陀如来を中心にするということです。では、中心にするということはどういうことでしょうか。
家の中の一番いい場所に安置し、大事に大事にたてまつっておくことでしょうか、そうではないと思います。大事に大事にということだけならば、お客様と少しも変わりません。
「私たちの仏教青年会では、委員長が中心だ」という時、その中心とはどういうことでしょうか、会の問題・会員の問題を委員長をぬいて話し合って考えるのならば、委員長はその会の中心ではありません。やはりそれらの問題を委員長に相談し、委員長と共に考えるから委員長が中心になるのです。
同じことだと思います。
阿弥陀如来が中心とは、家庭の問題・私自身の問題をまずだれよりも先に、如来さまに相談し、如来さまと共に考えさせていただくことです。
これは経済の問題だから如来さまに関係ない。これは教育の問題だから如来さまに関係ない。これは家庭の問題だから如来さまに関係ない。これは私のプライベートの問題だから如来さまに関係ない。こんなことでは決して如来さまを中心としたということにはなりません。すべての問題について、私と共に悩み苦しんでくださるのが阿弥陀如来なのです。まず、如来さまに相談してください。思いもかけない素晴らしい答えが返ってくるはずです。それを聞いて下さい。それを素直に聞く時、私の前には新しい広い道が開けてきます。
その開けた新しい広い道を、如来さまと共にあゆむ時、私たちの生活は本当になるのです。
急に、本当の生活といいますと、とまどわれるでしょう。本願寺出版社から、高校生向けに、『宗教に学ぶ』という本が出ています。その本に「生活とは、生命の活用。生存とは、生命の存続」という言葉があります。すなわち、生活とは、恵まれたこの生命を最大限に活かし用いることだ、というのです。
「あなたは、何のために働いているのですか」
「働かないと食べられませんからね」
「では、何のために食べるのですか」
「食べなければ死にますからね」
ただ、死なないためだけに生きているのなら生存でしかないというのです。
阿弥陀如来に、自身の人生の問題を相談し、阿弥陀如来に聞いていく中に、生命をおもいきり活かし用いる人生が開かれるのです。
では、どう開かれるのでしょうか。あなた自身、阿弥陀如来に相談してください。お仏壇を中心にした生活がはじまります。