阿弥陀如来とはインドの言葉で、日本語に訳すと、永遠の生命と無限の光ということになります。如来とは、真如の世界(浄土)から来た方という意味です。
ですから、阿弥陀如来とは、永遠の生命と無限の光の世界(浄土)から、永遠の生命と無限の光とは、どのようなことでしょうか。それは、今ここにいる私とどう繋がっているのでしょうか。
まず、永遠の生命ということについて考えてみましょう。今、ここに私がいるということについて、私達は何の疑いももっていません。しかし、よく考えてみますと、今、ここに私がいるということは大変なことです。
今、ここに私がなぜ存在するのか。それは両親がいたからです。では、なぜ両親はいたのでしょうか。それは、それぞれの両親に両親がいたからです。では、それぞれの両親がいたのでしょうか。それは、それぞれの両親の両親に両親がいたからです。
このように、今、ここに私が存在することの源流をたずねていけば、今、ここにいる私の生命の源は、どこまで遡れるのでしょうか。
おそらく、生命がこの世に現れた時まで遡れるでしょう。さらに、この世に生命が現れる前はどうかといえば、もうお手上げです。その間、決して平穏な時代ばかりではありません。平穏どころか人間の歴史は争いの歴史であると言っても言い過ぎではありません。そんな争いの中で、今、ここにいる私にまで届けられた生命は、私が生きるのは短時間でありましても、まさに永遠の生命といわなければならないでしょう。
永遠の生命とは、まさしく、今、ここにいる私にまで届けられ、今、ここに息づいている生命です。
次に、無限の光とはどういうことでしょうか。
私達は、生命を頂いただけでは生きられておれません。両親を通して頂いた生命は多くの人や物のおかげで、今、ここに生きているのです。一体、私が生まれてから今日までに、どれくらいの人や物のお世話になったでしょうか。
それは到底筆舌に尽くせるようなものではありません。
私を生かし、育んでくださった働きを光と受け取るならば、文字通り、私は無限の光に照らされ、育まれて、今、ここにいるのです。
無限の光とは、今日まで、そして、今も現に私を生かし、育んでくださる全ての人やもののはたらきのことです。このように考えますと、私の今、ここにいるままが永遠の生命と無限の光の世界にいるということになります。
しかし、悲しいことに、私たちは、自分の小さな考えや思いの中に閉じこもり、永遠の生命と無限の光の広い広い世界の中にありながら、その世界を知りません。
知らないどころか、小さな殻の中に閉じこもり、「私がどうの、誰がどうの・・・・」と、争いにあけくれています。
そんな私たちを放っておくことができない、永遠の生命と無限の光の世界から、永遠の生命と無限の光の広い広い世界を知らせんがために、私たちのところに来てくださった方が阿弥陀如来なのです。
この阿弥陀如来に遇うことによって、私たちは、自分自身の小さな殻から救いだされ、広い広い世界(浄土)に向かって、一筋に生きる人生を恵まれるのです。