青年グループと交流しよう

「交流」という言葉は『広辞苑』によると、

1.    一定時間毎に交互に逆の方向に流れる電流。

2.    文化・思想などの潮流が相交わること。

3.    管轄系統などが互いに交わりかわること。

 

という意味がある。これらのどの意味も「青年グループと交流しよう」というときの「交流」の意味ではなさそうである。

 「交」と「流」をわけて同じく『広辞苑』をひくと、

「交」とは、@まじわり。交際。A季節や時期のかわりめ。あいだ。

「流」とは、@流儀。A流刑。

 

という意味がある。そこで二つをつなぐと「交流」とは「交際の流儀」とでもいうことになるのであろうか、これも「青年グループと交流しょう」という「交流」の意味にピンとこない。

 そこで『広辞苑』にはない「交流」の意味づけをしなければならないわけである。そこで私は、「交流」とは「互いの思想や持ち味が相交わるようなまじわり」と理解したらどうかと思う。さらに言うと、「互いのよさを確認し、そのよさを吸収し、互いに成長しあうようなまじわり」といえるのではないか。

 青年の対人関係についてふれると、「心を打ちあけて話せる友人」を持っていない青年が、日本では四人に一人の25%という高さになる。スウェーデン3%

ユーゴスラビア4%、スイス7%、アメリカ8%であるから日本は断然世界一である。ところが「友達づき合いは深入りしたほうがよい」という考え方も、日本70%、アメリカ44%、イギリス36%、フランス12%と日本が世界一である。

 日本の青年の場合、「腹をうち割って」・「裸になって」交流したいのに、そういう交流の場がないということが問題なのである。

 念仏のみ教を聞き、広い世界をはばたこうとする仏教青年は、この現実を認識して、自らのためにも、より多くの青年、そして青年グループと交流したいものである。

 

 本願寺三代目覚如上人は、交流のあり方について、

 

 念仏者はたがいに、尊敬の念から礼儀を正しくし、親しい交わりの芳香を放つべきである。そのようなことを知らないで、かえって悪口を吐くということはまったく祖師(親鸞聖人)や先輩の方々の御遺訓を背くことになるのではないか。心得るべきことである。

と注意してくださったのである。

 

 

日校を開設しよう@

 

 日校とは、日曜学校の略ですが、今はもっと広い意味で寺院を中心にした少年少女の集いを日校といいますと、すぐに童話・ゲーム・紙芝居等を考える人があるかもしれません。しかし、これらは決して日校の中心ではありません。

 仏教青年会が、青年の問い如来さまの教えに聞いていく場でありますように、日校は少年・少女の問いを如来さまの教えに聞いていく場であります。少年・少女の問いはすなおです。

 「なぜ、勉強しないといけないの」

 「なぜ、仏さまは金色なの」

 「なぜ、念珠は左手に持つの」

等の問いを少年・少女の人たちといっしょに如来さまの教えに聞いていく、それが日校なのです。

 ですから、プログラムも「おつとめ」が有り、「話し合い」があり、話し合いで出た問いを中心にした法話があれば十分です。その上に、リーダーの持ち味を生かしたゲーム・童話・紙芝居等があれば楽しい日校になると思います。

 

 現在、実際行われている日校をみますと、毎週やっている日校、一週おきの日校一月一回の日校、夏冬春の休暇の時だけの日校と様々です。

 その中でも長く続いている日校はリーダーがいる日校と、あまり、プログラムが複雑でない日校です。なかには「おつとめ」・「法話」があり、あとはそれぞれ自由に寺の境内で遊んで帰るだけの日校もあります。

 ですから、仏教青年のみなさんもあまりむずかしく考えないで、例会のうち一回は少年・少女たちといっしょに如来さまの教えを聞き楽しく遊ぶという気持ちで日校をはじめていただけばいいのです。

 少年・少女の人たちと接することにより、仏教青年のみなさんも年とともに忘れていく大切なものを、とりもどされることでしょう。また、日校で育った

少年・少女が将来必ずみなさんのあとに続いて有力な仏教青年会のメンバーになるに違いありません。「仏教青年会百年の計は日校から」といっても過言ではありません。

 最後に日校を始めたが続かないという人たちの反省を、少し考えておきたいと思います。みなさんも日校をはじめられると必ずぶつかる問題です。

それは日校を始めると誰でも考えることですが、少しでも楽しい日校をと考えるあまりサービス過剰になりやすいという反省です。すなわち、新しいゲーム・童話・紙芝居をどんどん取り入れ、みんなが喜ぶ日校をと努力するのは素晴らしいことですが、いわゆる種ぎれになり、リーダーの方が疲れてきて続かなくなるケースが多いのです。

 ですから、日校を始めようとする仏青のみなさんにお願いしたいことは、あわてずあせらず・じみちに如来さまの教えを聞くということを、忘れないように続けていただきたいということです。

                    素晴らし、仏青の未来のためにも