躍 動

躍動・躍動・躍動・・・。これが「‘80真宗青年の集い」のテーマです。

この「躍動」という言葉をあなたはどのような思いで受けとめられますか。

 思いは、一人ひとりすこしづつ違うと思います。そこで、この「躍動」ということを、みなさんと一緒に学んでみたいと思います。

 字の意味からいいますとどの辞書にも「おどりうごくこと」とあります。しかし、これでは何かものたりません。それで、さらに注意して辞書をみますと、「内部の力が、いきいき作動する」(大漢和辞典)という意味に出会います。そこで、この意味をてがかりにして考えてみたいと思います。

 親鸞聖人のみ教えを聞き続ける私たちの「内部の力」とは一体なんでしょうか。

親鸞聖人は、

 「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろくぶ心の極まりなきかたちなり、慶楽する有様をあらはすなり、「慶」はうべきことをえて後によろこぶ意なり、「楽」はたのしむ意なり         (一念多念証文)

 

といわれています。ここでいわれます「うべきこと」とは一体なんでしょうか。

親鸞聖人は

 

 如来の本願を信じて、一念するに、必ずもとめざるに無上の功徳を得しめ、知らざるに廣大の利益をうるなり      (一念多念証文)

と教えてくださいます。これらのお言葉からあきらかなことは「どんなことがあってもあなたをほっておくことができない」という阿弥陀如来のお心にであい、この人生を生きる力をあたえられたことをよろこぶ心が「躍」であるということです。

 阿弥陀如来のお心は「おもいきりこの人生を生きてごらんなさい。どんなことがあろうと、私がいます」という南無阿弥陀仏となって、私たちにとどけられています。

 この南無阿弥陀仏こそ、私がこの人生を生きる力となってくださるのです。ですから、私の「内部の力」とは、南無阿弥陀仏です。

 南無阿弥陀仏が私の生命となり、力となっていきいき活動する。そこに、私たちの本当の「躍動」があります。

 大阪の榎本栄一さんは、躍動する自身を次のようにうたっておられます。

 

 自転車に乗り

 ふと気がつけば

 仏のいのちが

 私のいのちになり

 風の中を

 なむあみだぶつ

 走っている