本 願

 私たちはいろいろの願いを持っています。卒業を目前にした人は、「希望の大学に、また希望の会社に入りたい」と願い、身体の弱い人は「健康になりたい」と願い、仕事をもつ人は仕事が順調にいくことを願うのは当然です。

 これらの願いはそのことを願う人にとって、何よりも大切な願いであることは申すまでもありません。しかし、これらの願いが満たされても、私たちの問題はなくなりません。

一つの願いが満たされても、また、新しい問題が出てきます。

 私たちの願いは、一つ一つの問題の解決をめざすのみで、すべての問題を根本から解決するようなものではありません。

 そこで、阿弥陀如来は私たちの問題を根本から解決する願いをおこしてくださいました。

この根本の願いを「本願」といいます。

「本願」は、『仏説無量寿経』に四十八の願いとして説かれています。どれも大切な願いですが、親鸞聖人は四十八のなかで、六つの願を「真実の願い」であると明らかにしてくださいました。六とは

一、 私たちがこの人生を、阿弥陀如来の真実の世界(浄土)にむかって一筋に力強く生き抜
  き、浄土に生まれて、真実の悟りを開くという救いを誓ってくださった第十一番目の願。

二、 阿弥陀如来と浄土が限りない光明に満ち満ちていることを誓ってくださった第十二番目の願。

三、  阿弥陀如来と浄土が永遠であることを誓ってくださった第十三番目の願

四、  阿弥陀如来の私たちの問題を解決するはたらきが、南無阿弥陀仏の名号となって、すべての
   人々にとどけられるということを誓ってくださった第十七番目の願

五、  どのような人でも「すべてをまかせよ」といってくださる南無阿弥陀仏におまかせする
(信心)だけで、間違いなく救われるということを誓ってくださった第十八番目の願

六、 浄土に生まれるに決まった信心の行者は、必ずこの世にかかわって、すべての苦悩する
 人々を救うはたらきをするということを誓ってくださった第二十二番目の願

 この六つの願いの中ででも、「第十八の願」が、直接私たちの問題を解決し浄土に生まれさせてくださる願いで、本願のなかの本願です。小さな殻に自ら閉じこもって苦悩する私たちが、広い世界にでる唯一の道は、「すべてをまかせよ」といってくださる南無阿弥陀仏にまかせ精一ぱい生きることです。このことを誓ってくださったのが「第十八の願」です。この願いがなければ、小さなことに固執して、自分の殻の中に閉じこもる私の救われる道はありません。

名 号

名号とは、南無阿弥陀仏のことです。

 南無阿弥陀仏を「助けてくださいアミダさま」というような意味に受け取り、阿弥陀如来に、何かを祈願するときの呪文のように思っている人も多いことでしょう。ある先生は、南無阿弥陀仏を「助けてくださるアミダさま」と言う事だと教えて下さいました。

 私たちは、いろいろなものによって縛られています。

 身近なところで言いますと、日や方角の良し悪し、干支、星占いをはじめ、手相・人相・印相・家相・墓相等数え上げればきりのないぐらい雑多なものに縛られています。
ひょっとすると、私たちはそれらに縛り続けられてきましたから、自分が縛られているということさえ気づかないぐらい感覚が麻痺してしまっているのではないでしょうか。

 二年前に、新車を購入したときのことです。留守がちな私は、出来ることなら在宅の時に搬入してもらおうと思って電話をしました。セールスの人の返事は、「私もその日にして頂くのが一番都合がいいのですが、本当にそれで良いのですか」というのです。おかしなことを言うなと私は思いました。「あなたも都合がいい、私も都合が良いのですから何も言うことはないはずですが」と言いますと、「その日は、日が悪いのです。本当に良いのですか」という返事です。

 メカの最先端を行くような自動車を購入するのに、日の良し悪しでもないと思いますが、洗練された車内に、古色蒼然とした「お守り」がぶら下がっているのを見かけることもあります。

 セールスマンの人は、車を持って来たときに、「車の納入には随分気を使います。日だけではないのですよ。方角まで言う人がいるのです。わざわざ都合の悪い日に、遠まわりしてまで方角をあわすのです。」とウンザリした顔で話しました。もっともっと、頭を使わなければならないことは他に多くあるはずです。一から十まで、こんな調子で、星占い、手相、人相等に縛られふりまわされているのが、多くの人たちではないでしょうか。

 また、自分自身の内を見ますと、「みんなの人によく見てほしい。つまらない人間だと思われたくない」という自意識に縛られ、常にまわりの人の目を気にして小さくなっているのが、私たちではないでしょうか。

 小さな殻に閉じこもり、わけのわからない雑多なものに縛られている私たちに、「どんな事があっても、あなたを見捨てることがない私がいます。」と呼びかけてくださる阿弥陀如来のあたたかい言葉と、働きが、南無阿弥陀仏の名号なのです。この名号は、小さな殻の中でビクビクし、雑多なものに縛られふりまわされてオロオロしている私たちを、小さな殻から、束縛の身から、助けてくださる力なのです。

 たとえ失敗することがあっても、まわりの人から笑われるようなことがあっても、私たちには南無阿弥陀仏という温かいい言葉と、働きがあるのです。

 二度とない人生、考えなければならないことを精一杯考え、やらなければならないことを精一杯やって生きたいものです。