浄土真宗の教えが「他力」の教えであることは、あまり仏法に縁のない人でも知っています。しかし、親鸞聖人が私たちのために明らかにしてくださった「他力」ということを、正しく理解している人はほとんどいません。
多くの人は「他力」を依存主義・怠け主義・頼他主義と受けとっています。『広辞苑』にも一番はじめに「他人の力・他のものの助力」という意味が記されてあります。
新聞、テレビ等のマスコミにおいても、決して「他力」はいい意味では使われません。
昨年、新国劇が劇団運営にいきづまった時、「朝日新聞」は「いい芝居をつくれば、いずれは事情が好転するだろうという他力本願的な考え方の甘さはなかったろうか」という文を記載しています。このような記事は注意してみれば、毎度のことです。
親鸞聖人は「他力というは如来の本願なり」と言い切られているのです。親鸞聖人が、私たちに明らかにしてくださった「他力」は、他人の力をあてにして生きるというようなことではありません。
「どんなことがあっても私がいるではないか、精一ぱいこの人生を生きなさい」と、いう阿弥陀如来のお心(本願)を「よりどころ」として、いかなることにであおうとも、いかなる情況におかれようとも、ごまかすことなく、逃げることなく、力一ぱい生きる。
そこに、親鸞聖人が明らかにしてくださった「他力」の世界があるのです。
「すべてのものは移り変っていきます。だからあなたたちも、一すじの道を休まず精一ぱい生きなさい」というのが、釈尊の最後のお言葉であります。しかし、「休まずに精一ぱい生きよ」と言われても私たちはいろんなことがありすぎて、人生がストップしがちです。
過去の失敗やらあやまちにとらわれて、身体が動かなくなることもあります。未来のことを考えると、あれも不安、これも不安で、身がちじんでしまうことがあります。また今日一日を生きるにも自信がなくて、他人の顔色を見ているうちに一日が終わってしまうこともあります。そんな私たちが、どうして「休まず精一ぱい生きる」ことができるのか、親鸞聖人は、如来さまの「どんなことがあっても、私はあなたをすてることがない」という本願のお力、「他力」があるから生きることができるといわれるのです。
「他力」すなわち、「本願力」という「よりどころ」を持たない人は、どうしても他人の力をあてにするのです。だから、本当は親鸞聖人が明らかにしてくださった「他力」を知らない人が、依存主義・頼他主義になるのです。
なにはともあれ、親鸞聖人があきらかにしてくださった「他力」の力強さを、私たちが日々の生活の中で実践していくことが何より大切です。
衆生とは、衆多の生死を受くるものという意味です。
衆生の生死とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の生命を生き死にするということです。
私たちが人間に生まれ、人間として生きるならば、必ず仏法に目覚めるはずです。
人間とは、真実に遇わなければ落ち着けない存在なのです。苦しみを苦しみのまま、悩みを悩みのままにして、ほっておけない生きものが人間です。
すなわち、人間は苦しみ、悩みを解決する道を求めずにはおれない生きものなのです。
私の苦しみ、悩みを抱きとってくださる真実に遇わなかったら、私は落ち着けないのです。
もし真実に遇わなくても落ち着いているものがいるならば、それは、すでに人間でなくなっているということです。
他人を悪者にし、他人を責めるだけで落ち着いておれるものを鬼といい、責任を他人に転嫁して落ち着いておれるものを亡者といいます。これらは共に、地獄の生命を生きるものです。
欲望の使い走りのみで落ち着いていれるものは、餓鬼の生命を生きるものです。首に縄をつけて引っ張られないと動かず、暇さえあれば横になって寝そべって日を送る、そんな生活に落ち着いておれるものは、畜生の生命を生きるものです。何でもかんでも、一度はひっかからないと落ち着けないものは、修羅の生命を生きるものです。自分一人恵まれて、いい気になって落ち着いておれるものは、天人の生命を生きる。これらの生命に落ち着いておれないもの、真実を求めずにおれない、真実に遇わなければ落ち着けないものが人間なのです。
私たちは人間に生まれながら、ややもすると人間でなくなり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・天人の生命を生きています。すなわち、衆多の生死を受けています。
阿弥陀如来は、このように衆多の生死を受ける悲しい私たちの存在を見抜かれて、大いに悲しみ慈しみの心をおこしてくださったのです。
阿弥陀如来の大慈悲心は、悲しい私たちの存在を根こそぎ抱きとってくださいます。阿弥陀如来の抱きとられてはじめて、他人を責めなくても、責任を他人に転嫁しなくても、欲望の使い走りをしなくても、首に縄をつけられなくても、いちいち他人にひっかからなくても、恵まれなくても、私の身は落ち着くのです。
阿弥陀如来は真実であり、私は阿弥陀如来のすくいのお目当てであったのです。