浄土真宗でいう悪人とは | 自己中心の醜い人間が凡夫であり、悪人. その自分の姿にうなずける世界が浄土真宗 |
「後生の一大事」を聞かないが |
「生死を出、離れる」という、この言葉の内容なくしては、浄土真宗の法話にならない |
仏教は智慧、それとも慈悲 |
智慧のない慈悲も慈悲のない智慧も成り立たない |
納得ができない“前生の業” | 運命論などを否定された釈尊。 「業」とは「行為の継続によって身につく力」のこと |
地獄や餓鬼は死後の世界か | 三毒の煩悩に執らわれている「いのち」のあり方を示す |
浄土真宗は悪人が救われる教えと聞きました。世間で悪人といえば、犯罪者や他人に平気で迷惑をかける困った人のことですが、浄土真宗の悪人とはどういう人ですか。
浄土真宗でいう悪人は、あなたも、うすうす気付いておられるように、世間一般でいう悪人とは違います。親鸞聖人の書かれたもの(『教行信証』化身土文類)に「『汝是凡夫心想るい劣』といへり、すなわちこれ悪人往生の機たることを彰すなり」とあります。『汝是凡夫心想るい劣』というお言葉は、『観無量寿経』の中に出てくるお言葉です。人生に行き詰まって嘆き悲しむ一人の女性に、お釈迦さまが語りかけられたもので、「貴女も心の弱い凡夫でしたね」というお言葉です。「心が弱い」とは、頭では善・悪がよくわかっているつもりでも、その時その場の縁によって、やってはいけない事をし、言ってはいけないことを言い、考えてはいけないことを考える、意思の弱い人間のあり方です。
何もない時は間違いないような顔をし、間違いないようなことを言っていますが、状況次第で、何をしでかすか、何を言うかわからない危ない人間、それが凡夫であり、悪人なのです。『観無量寿経』には「心想るい劣」に続いて「末得天眼」「不能遠観」と、凡夫について記されています。
「末得天眼」とは、先を見直す目をもたないということです。他の人のことはよく見えても、自分の将来のことになると何も見えないのです。「あの人もあんなことをしていると、将来きっと困るよ」と言いながら、自分が今、こんな生き方をしたら将来どうなるかが見えないのです。ですから、自分のことになると頭を打たないと目が覚めない、いや頭を打っていても目が覚めないという悲しい人間が凡夫であり、悪人なのです。
さらに「不能遠観」とは、遠くが見えないということです。遠くが見えないとは、大きなことを言っても結局、自分の利しか考えないという自己中心のあり方です。立派なことは言っていても、いざとなったら他の人のことは忘れ、自分の利しか考えない醜い人間が凡夫であり、悪人なのです。
ですから、浄土真宗でいう悪人とは、危なく、悲しく、醜い人間ということです。多くの人は、自分は間違いのない、確かで立派な人間であると自分を買いかぶっています。
悪人とは、浄土真宗のみ教えに遇って自己の本当のあり方を知らされた人が、自分の本当のあり方にうなずく人間のあり方です。
そんな自分にうなずけるのは、悪人をすくうという阿弥陀如来のお心が間違いなくとどいているからです。
おことわり:「凡夫心想るい劣」の「るい」の漢字がWordでは表示できますがHPで表示
できませんのでご了承ください。
著作 藤田 徹文