お寺によく参るおばあさんが「この世のことは、すべて前世の業による」と
言われました。私は納得できません。仏教では「業」「前世」をどのように説いているのでしょうか。
この世には説明のつかないことや、またどう考えても納得のいかないことが多くあります。だからといって、「前世の業」で何もかも済ませてしまうのも
問題です。
それでは、人間によってゆがめられたあり方により苦しんでいる人に、「前世の業」であきらめを強いることになってしまいます。
釈尊ご在世の時代、多くの人は、
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人生は神さまのおぼしめしによる(神意論)
A
人間にはそれぞれ運(宿)命のようなものがあり、それによる(運命論)
B
人生は、その人がどのような人や事柄に出会うかによる(偶然論)
と考えていました。
釈尊は、これらの三つの考え方を否定し、「人生は、どのような行為をするかによる(行為論)、その行為の継続による(精進論)、行為の継続によって
身につく力による(業論)」と言われました。
おばあさんの考えは、釈尊が否定された運命論にちかいものです。私たちの
教団も、長い歴史の中で、運命論のような話をしてきた時期がありました。
教団としても、深い反省に立って「業」の本来の意味を明らかにする努力が必要です。 「業」は、「行為の継続によって身につく力」のことで、私たちが、この世を生きるうえで大切な大切なものです。
また「前生」と言うことですが、私たちがこの世に誕生する前の「生」を「前生」、この世を生きる今の「生」を「今生」、さらにこの世の「いのち」を終えてから後の「生」を「後生」といいます。
私たちがわかっているのは「今生」で、「前生」「後生」については、わからないというのが正直なところです。わからなくても、私の「いのち」は無から生じたのではないのですから、間違いなく「前生」はあるのです。また、死によって私の「いのち」は無くなるわけではありませんから、間違いなく「後生」
はあるのです。
み教えに遇って、「今生」の私のあり方が明らかになることによって、わからなかった「前生」「後生」が明らかになるのです。
善導大師は、み教えに遇って「今、ここにある身は罪悪深重の身、生死
輪転の身、凡夫の身である」ということがあきらかになると、「昔の昔から常に
罪悪の中に身を没め、常に生死流転してきた身であった」こと、さらに「永遠に、今のあり方から出る手掛かりも、離れる縁もない身である」ことがあきらかになると言われました。
だから、今、阿弥陀仏の摂取の光明の中にある身であることに目覚めたら、「後生」に間違いなく浄土に生まれるのです。