生死とは地獄・餓鬼等をくるくると転び続ける『まよい』のことだとありましたが、地獄・餓鬼は、この世で悪いことをした人が死後に堕ちる世界ではないのでしょうか。
この世でいいことをした人は、死後、楽しみいっぱいの極楽に生まれ、反対に悪いことをした人は苦しみだけの地獄に堕ちる、と教えるのが仏教であるように思い込んでいる人は多いと思います。
確かに極楽・地獄は仏教の説くところですが、いいことをしたら極楽、悪いことをしたら地獄という考え方は「勧善微悪」を教える儒教的な考えで、仏教ではありません。
仏教では確かに死後にも地獄・餓鬼を説きますが、今すでにわが身は地獄・餓鬼・畜生・人間・天人の五悪趣にあることをあきらかにして下さいました。
そして、そのような「いのち」のあり方を「生死(まよい)」といい、そこを離れる(生死出離・生死解脱)道を教えるのが仏教なのです。
中国の善導大師は、「今、ここにあるわが身には、罪悪深重の身であり、生死輪廻の身であり、凡夫の身です。このような<いのち>のあり方は、この世に生まれてからのことでなく、久遠の昔からのことであり、このまま、この身を
終われば永遠に、このような<いのち>のあり方から出て離れる手掛かりもないまま、まよい続けるでしょう」といわれました。
親鸞聖人も『正信偈』のなかで「信を獲て見て敬ひ大きに慶喜すれば、すなわち横に五悪趣を超截す」といわれますから、今、私たちの身は五悪趣の中にある「いのち」という思いでおられたのです。
また「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情(阿弥陀さまの本願を疑いはからう心)をもつて所止(迷界にとどまる)とす」ともいわれていますから、「生死輪転」は単に死後のことでなく、今の私たちの「いのち」のあり方です。 私たちは、「どんなことがあってもあなたを捨てることはない」と我が「いのち」を抱きかかえて下さっている阿弥陀さまを見失い、「私が、俺が、我が」と小さな「我」に執らわれて生きています。
私たちの「我」の中身は、煩悩です。ですから「我」に執らわれるとは、煩悩に執らわれるということです。私たちは執着したものに束縛され、執らわれたものに逆につかまり、それに引きずられて生きているのです。
貪(むさぼり)という煩悩に引きずられて、よろこびを失い、不足だけで生きている「いのち」を餓鬼というのです。
瞋(いかり)という煩悩に引かれて、身を焦がしている「いのち」のあり場が地獄です。
癡(おろかさ)の煩悩に引かれて、まわりの人のことも忘れ、明日も考えず、今日を寝そべって過ごしている「いのち」を畜生というのです。
だから、貪・瞋・癡をわが「いのち」をだめにする三毒の煩悩というのです。