仏教は智慧、それとも慈悲

 仏教は智慧の宗教だというお話を聞いたことがありますが、先日、お寺で聞いたお話は、慈悲の教えが仏教だと強調されました。どちらが本当ですか。

 智慧を強調して話される先生、慈悲を中心に説いて下さる先生、それぞれの先生の説き方の違いがあるのです。仏教は智慧の宗教だから、慈悲の宗教であり、逆に慈悲の教えということは、智慧の教えということです。 智慧のない慈悲も、慈悲のない智慧もありません。

 まず智慧ということですが、智とは外面がありのままに見えると言うことです。私たちは外を見るのも先入観や、自分の好き嫌いで見ていますから、ありのままにものが見えていません。外面の半分見えていればいい方かもしれません。

 慧とは、ものの内面というか、背後がありのままに見えると言うことです。

私たちは、毎日顔を合せ一緒に住んでいる家族のことも、よく見えていません。確かに子供の身長の成長は見えても、今、子供が、どんな気持ちで親を見ているのか、どんな思いで日を送っているのかは、見えていません。夫婦でも、お互いに年を取ったことは見えていても、お互いの思いは、解かっているようで解かっていません。

 周りの人が見えないと言うことは自分もよく見えていないと言うことです。私たちは、自我に執着し、自我というか「我」を通すことだけに力が入り、周りの人の気持ちや思いを受けとることがお留守になっているのです。「我」こそが、ものを見えなくする元凶なのです。小さな「我」が開かれるところに智慧の世界があるのです。「我」が開かれ、周りの人の心が見え、自分のありのままの姿が見えてくると、自分の非なるところが見えてきます。自分を非と受け取る心が、慈悲の悲なのです。

 智慧のない人間は、常に自分を是とし、他の人を非として、何かあると、他の人を裁き、責める生き方しかしません。

 智慧によって自分の非を知らされた人は、他の人を裁いたり、責めたり出来ません。あの人も、この人も、私と同じ悲しみをもったお仲間であると手を取り合って行くしかないのです。

 慈とは、悲によって開けてくる友情というか同朋意識の展開です。慈は「いつくしむ」ということですが、自分を高所において、他を下に見て手を差し伸べるということではありません。同じような悲しみを共有するお仲間として手を取り合うのが慈です。智慧のない人に本当の悲はありません。悲は智慧によるのです。

 親鸞聖人は「智慧の念仏」「信心の智慧」と言われます。阿弥陀如来の呼び声(念仏)は私の「我」を破り、智慧を与えて下さるのです。また阿弥陀如来のお心を頂く(信心)ことにより、智慧の目をたまわるのです。