「後生の一大事」を聞かないが

 若い頃聞いたお話では、「後生の一大事」という言葉をよく耳にしましたが、最近はあまり聞きません。時代によって法話の内容は変っていくものなのでしょうか。

 法話も時代によって話し方、説き方は変るでしょうが、内容までが変るようでは、浄土真宗が浄土真宗でなくなるのですから、大変です。

 確かに「後生の一大事」という言葉を使ってのご法話が少なくなっているかもしれませんが、内容として「後生の一大事」を説かなかったら浄土真宗の法話になりません。

 「後生」を死後の世界と受け取り、「後生の一大事」を、「死後が一番大事」という言葉と理解して、浄土真宗は、この世はこの世の成り行きにまかせ、せめて死後だけでも幸せなあり方を実現しようという教えと間違って受け止めた人も多くあったために、いつのまにか「後生の一大事」という言葉を使わなくなったのでしょうか。

 しかし、誤解を恐れて「後生の一大事」という言葉を避けている間に、ご法話そのものが、浄土真宗で一番大事にしてきたことを説かずに、聞く人の耳に心地のいい話だけになっている傾向もなきにしもあらずの感があります。

 「後生」は、今日ただいまからの「いのち」のあり方と受け取るのが本当でしょう。それは何年か先の死後というようなことではありません。「ひとのいのちは出づる息、入るほどをまたずしてをはる」(歎異抄)ことがあるのです。ですから、「後生」をまだまだ先のことと思っているならば、大変なことになります。「一大事」とは、わが「いのち」にとって一番大事なことということですから、「後生の一大事」とは、今日ただいまからのわが「いのち」にとって一番大事なこと、ということです。

 この「いのち」にとって一番大事なことを明らかにし、その解決の道を教えてくださる教えが浄土真宗なのです。「後生の一大事」とは、「生死を出、離れる」ことです。これは浄土真宗というより、すべての仏教がめざすところです。『歎異抄』にも「われもひとも、生死を離れんことこそ、諸仏の御本意」とあります。

 「生死」は、「生死輪転」、「生死流転」、「生死輪廻」と述語されますように、五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人間・天人という間違ったいのちの世界)をくるくると一つ輪の上をいつまでも転び続ける「まよい」のことです。

 私たちは、確かなお慈悲を見失って、小さな「我」に執らわれ、その時そのときの煩悩に引きずられ五悪趣を経めぐり続けています。そのような「いのち」のあり方から出離することが、「後生の一大事」です。

 私たち凡夫が「生死を出づるべき道」は、阿弥陀さまのお心に遇う(信心)しかないと教えて下さったのが親鸞さまなのです。