法然(ほうねん) 恵信尼(えしんに) 覚信尼(かくしんに
親鸞の師であり、浄土宗を開いた人。
浄土宗とは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えれば、みんなが極楽(ごくらく)に行けるという教えのこと。念仏禁止令で、四国の高知県に流罪となった。
親鸞の妻。没年は不明だが、親鸞の末子覚信尼〔1224〜83.60歳〕宛の自筆書状十通が現存し、最後の書状に記された年時から文永五年(一二六八)に八十七歳で健在であったことが知られる。生国は越後国中頸城郡板倉村あるいはその近郷で、京都九条家に仕えて分流し土着した三善為教の女とも、三善家に仕えた女性ともいわれている。親鸞との結婚は、京都であったのか流罪地越後であったのか不明であるが、これは親鸞の結婚回数の謎と善鸞〔1217?〜86〕が恵信尼との子がどうかという問題と深く関係している。親鸞は赦免後、関東に移住し恵信尼ら子供もこれに従う。約二十年関東に住した後、親鸞とともに京都へ戻る。その後、三人の子をつれて親鸞とわかれ越後に戻る。越後では書状によれば、十人前後の下人をもち所領の経営にあたり子供を近在に住まわせていた。弘長二年(一二六二)京都に残した末子覚信尼より親鸞の死を知った恵信尼は、覚信尼に書状を送り若き日や、関東時代の親鸞の想い出を認めた。これが大正十年(一九二一)西本願寺にて発見された恵信尼の書状十通である。

(『鎌倉・室町人名事典』松浦竜夫氏)


本願寺の基礎を築いた鎌倉時代の尼僧。親鸞の末子。母は恵信尼〔1182〜?〕。『恵信尼消息』には王御前として現れる。十五歳で日野広綱に嫁して覚恵を生んだが、二十二歳のとき死別。晩年の親鸞に仕えながら小野宮禅念に再嫁し、唯善〔1266〜?〕を生む。親鸞の没後はその墓を守っていたが、文永九年(一二七二)、京都大谷北地の禅念の敷地内にその墓を移し、廟堂を建てて親鸞の木像を安置した。建治元年(一二七五)に禅念が没すると、五十二歳の覚信尼はその土地を寄進して大谷廟堂と土地を親鸞門弟の共有物とした。これが本願寺へと後世発展していった。廟堂は主に東国門弟の懇志によって運営され、のちの本願寺の性格が規定された。弘安六年(一二八三)十一月、病に倒れ、間もなく寂したといわれる。

(『鎌倉・室町人名事典』荒川正憲氏)

親鸞聖人をとりまく人々

親鸞聖人

承元(しょうげん)元年(1207)、親鸞(しんらん)さんは流罪(るざい)となり、越後国府(えちごこくふ)に住むことになりました。この地での7年間の生活が、浄土真宗(じょうどしんしゅう)のもとを開くきっかけとなったのです。

鏡御影

親鸞聖人のご生涯

聖人のお姿が、あたかも鏡にうつしたようによくえがかれれている
のでこの名がある。墨一色の簡素な線描画であるが、その筆致は
きわめて力づよく、よく聖人の風格をあらわしている。
像高二十八センチ余。専阿弥陀仏の描くところである。
                          (本派本願寺蔵)

承安(しょうあん)3年(1173)、京都生まれ。9歳の時、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)に登り修行を始めました。29歳の時、山を下りる決心をし、すでに比叡山を下りて念仏の教えを説いていた法然上人(ほうねんしょうにん)のもとを訪れ、その教えを受けることになりました。そして承元元年(1207)、念仏禁止令(ねんぶつきんしれい)が出され、親鸞さんは、越後国府に流罪となったのです。このとき35歳でした。僧の身分を剥奪(はくだつ)され、藤井善信(よしざね)と名乗って生活をしました。結婚もしています。
そののち、罪を許された親鸞さんは、建保(けんぽう)2年(1214)、常陸国(ひたちのくに)(茨城県)へ旅立ち、浄土真宗を開きました。
20年後、京都に帰り、弘長2年(1262)、90歳で亡くなりました。

親鸞聖人の第一の理解者   (恵信尼さま) 著作 藤田 徹文