親鸞聖人の第一の理解者
恵信尼公のお手紙大正時代に発見
日本ほど多くの宗教が共存している国は、珍しいと思います。しかし、どれほど多くの宗教があろうとも、国内では親鸞聖人をご開山と慕う人が一番多いと思います。
ウソのような話ですが、その親鸞聖人が本当にこの世に実在した人かと、大正時代に疑われていたのです。聖人の書かれたもの以外に「親鸞」という名が何処にも出てこなかったからです。
親鸞聖人は間違いなくこの世に実在した方であったと言うことが明らかにされたのは大正十年(1921)の十月に、西本願寺の蔵で、恵信尼公のお手紙が発見されたからです。
恵信尼公とは、親鸞聖人の奥様です。親鸞聖人は僧が妻帯することが社会的に認められていない時代に、堂々と妻帯された方であるということは、全ての人の知るところですが、親鸞聖人の奥様がどういう方であったかはあまり知らされていません。
親鸞聖人には、奥様が二人いた、三人いたという学者の人もいますが、確かなことは解りません。しかし、恵信尼公が聖人の奥様であったということだけは、間違いありません。
越後の豪族三善家の息女
恵信尼公は越後国府(新潟県上越市国府)に配流された聖人と結ばれ、やがて聖人と共に関東に赴かれ、関東に二十年在住されます。その間、六人の子女を儲けられました。
さらに聖人は六十二、三歳で帰洛されますが、恵信尼公も聖人に従って上京され、およそ五十年近い歳月を聖人の伴侶として生活を共にされました。
恵信尼公は、蓮如聖人の十男実悟師(1492〜1583)の『日野一流系図』に、越後の豪族三善為教の息女とされています。
当時、越後に三善氏という豪族がいたことは確かです。三善氏は学問をこととする中級の貴族で、平安時代の早い時期から諸国の長官(守)や次官(介)を輩出した家であり、地方でも三善を名のる豪族が多かったと記されたもの(『親鸞とその家族』)もあります。また、三善家は関白九条家の累代の被官公家で越後頸城郡のうち頸南の地にあった九条家笹倉荘の管理と深い関係があったと思われると記したもの(『越後親鸞と恵信尼』)もあります。どちらにしましても、お手紙を見るかぎり、恵信尼公は、当時の地方女性としては珍しく教養があるばかりでなく、その筆跡を見ても、また飢饉に苦しむ中にありながら七尺五重の寿塔を造っていること等から考えても、三善氏がそれなりの力を持った豪族であったことは間違いありません。
お念仏支えの89年のご生涯
恵信尼公は、夫である聖人を観音の化身として敬慕されました。そのことを、聖人ご往生の後お手紙で、末娘の覚信尼公に、聖人を観音の化身であるという夢を見たことを語り、それ以後一時も「ありふれた普通のお方とは思い申し上げないでおりました」と記しておられます。
恵信尼公は聖人の九歳下でしたから、聖人とご結婚されたのは二十代後半であったと思います。ご家族の事情で七十二歳のころ京都から越後に帰られ、お子達や孫たちと一緒に生活されました。しかし、恵信尼公の晩年は打ち続く飢饉に幼い孫たちをかかえ大変なご苦労でしたが、お念仏に支えられて力強く、また健気に生きられ、八十九歳のころ、お念仏のうちに往生されました。
最も近くの頼もしい同行
聖人のご往生の時、恵信尼公は八十一歳でしたが、その翌年(八十二歳)のお手紙で「あの御影「聖人の肖像画」の一幅、ほしく思ひまゐらせ候なり」と覚信尼公に頼まれる文面に接し、聖人としての間柄がどのようなものであったかが偲ばれます。
また、十数年も別れていた聖人のご往生を聞いた時、「なによりも殿(親鸞)の御往生、なかなかはじめて申すにおばず候ふ」といいきられた恵信尼公こそ、聖人の第一の理解者であり、聖人の一番近くにおられた頼もしい同行であったと思います。
そんな恵信尼公がおられて、親鸞聖人という希有の宗教者が出世されたのです。
本願寺三世覚如上人が「仏法示誨の恩徳を恋慕し仰崇せんがために、三国伝来の祖師・先徳の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり」(『改邪鈔』)といわれていますが、私はその先徳のお一人として、親鸞聖人と同じく恵信尼公を恋慕し仰崇して、自坊の本堂に、安置させて頂いています。
著作 藤田 徹文