煩悩に迷わされず、身軽に生きたい

 仏教でいう「救い」とは何か。仏教が目指すのは、いただいた命をそれぞれが自在に生き切って持ち味を出し、そのことによって周囲を照らすことだ。超能力を持つとか人に勝つことではない。

 「教行信証」の信巻で、信心を得た者がどう救われるか、どんな利益(りやく)をいただくかが説かれている。

 つまり救いとは、信心を得て自在の生活を送ることであり、また利益があるということだ。救いをどこかにある特別のもののように思うのは間違い。

 利益とは、願いが成就することを言うが、浄土真宗を他の多くの宗教とは、その願いの中身が違う。多くの宗教では願いは欲(望)を言うが、浄土真宗では志(願)を言う。私たちが本当に願っていることは、自分が自分として束縛を離れて自在に生き切ることではないか。

 私たちはさまざまに束縛されているが、如来の大悲心をいただくことで、それを乗り越えることができる。大悲心は南無阿弥陀仏という呼び声となって私たちに届いているというのが親鸞さんの教えだ。如来の慈悲の中で精いっぱい生きよう、と歩み続けることが救われている姿だ。

 私たちは迷信にとらわれ、人目を気にし、過去や未来に引きずられて、肝心の「今、ここで、私が力いっぱい生きる」ということを忘れがち。「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき」(高僧和讃)と言われているように、気になることも念仏に守られて乗り越えて行けるのだ。

 仏教は煩悩を戒めるが、禁欲を説いているのではない。その間の中道を歩むようにと教えている。貪欲(とんよく=むさぼり)、瞋恚(しんに=怒り)愚痴(ぐち=愚か)といった煩悩に縛られた命のあり方に対して、その生き方で良いのかと問いかけているのが仏教だ。

 煩悩の一番の根源は我執だが、それを断ち切ってくれる利剣が念仏だ。念仏しながら如来の心をありがたくいただくのが信心。念仏の一声一声が如来の「そなたを守るぞ」との呼び声だから「ありがたい」とただ感謝する日暮らしが大切なのだ。

 浄土真宗では「信心が大切」といっても「信じなさい」とは言わない。信とは「必ず救う」と誓われた如来の大悲心に対して疑いがなくなった状態を指す。「本当に大きなお慈悲の中に生かされているのだな」とこの身でうなずける境地だ。浄土真宗に限って「ご信心」というのは、如来の心に対する信だからだ。ご信心によって何が明らかになるか。まず、大きな慈悲に対する歓喜の心が起る。そして、我執に生きるお粗末な自分に慙愧(ざんぎ=はじる)の心がわく。我執にとらわれた心が見えると、お慈悲に任せる新しい世界が開けてくるだろう。

 生身だからどうしても腹が立つ私たちだが、そのたびに「あっ、間違った」と念仏がくちをついて出る生活を送りたい。煩悩を単純肯定する生き方こそが迷いを深めているのだ。そんな自己を一度否定した時、もっと大きく肯定してくださる如来の慈悲の世界が見えてくる。

 自分で自分を肯定するのではない。学問しても修行しても慙愧の心のわかないそんな私も如来の智慧(ちえ)をいただいて、煩悩に迷わされている生き方に対して「あっ、違った」と反省させられる。

 如来の「そのままでいい」というのは私たちの命を肯定しているのであって、煩悩を肯定しているのではない。いろんなことに戸惑いふらつきながらも、念仏によって大道を踏み外さないような人生を歩ませてもらう。我執を離れ心を身軽にして、わが命を生き切る生活を送らせてもらう。「往生とは信心の生活」(曽我了深)という言葉もあるように、これが往生であり、救われた姿だ。    

藤田 徹文