往生のたね

 私たちは何をしても、した以上は何か得るところがなければと、すぐに結果を求めます。このような考え方は、朝夕のお勤めにおいても、また、お念仏申すときにも同じように出てきます。

 お勤めをすれば何か得があるのか、念仏すればどういう利益があるのかと、お勤めする前に損得を考え、念仏申す前に利益を考えます。

 蓮如上人の時にも、これと似た話があります。ある人が「朝夕、正信偈和讃にて、念仏まうすは、往生のたねになるべきか、なるまじきか」と問いますと、それを聞いていた人たちの意見は真反対に分かれました。

 「往生のたねになる」という人たちと、「往生のたねにはなるまじき」という人たちです。

 蓮如上人は、それを聞いて「いずれもわろし」といわれ、その理由を「正信偈和讃は衆生の弥陀如来を一念にたのみまいらせて、後生たすかりまうせとの、ことはりをあそばされたり、よくききわけて、信をとりて、ありがたやありがたやと、聖人の御前にてよろこぶなり」と話されました。

 「正信偈和讃」は、「どんなことがあってもあなたを捨てない」という阿弥陀如来の確かなお心に遇って、この「いのち」を力いっぱい生き抜かせていただくところに救いがあるのですと説き明かして下さったものです。

 また、阿弥陀如来のお心をいただき、阿弥陀如来のお心に遇ったことを喜ぶのがお勤めです。

 ですから、お勤めをしたら往生するというのも、反対にしないというのも間違っていますと、蓮如上人は、淳々とお話下さったのです。