救いをよろこぶ

「私はあの宗教のおかげで救われました」「私はどこそこの神様に助けて頂きました」

という話を、世間ではよく耳にしますが、浄土真宗にご縁のある方の口からは、あまり「救われた、助けられた」という事を聞きません。

 蓮如上人に、「今救われていることの喜びの上から念仏申すのが本当でしょうか、将来必ず救われることをよろこんで念仏するのが本当でしょうか」とお尋ねした時、「いずれもよし、ただし正定聚のかたは御たすけありたるとよろこぶこころ、滅度のさとりのかたは御たすけあらふずることのありがたさよと申すこころなり、いづれも、仏になることをよろこぶこころよし」とお答えになりました。

 仏教で言う救いは、みんなに生かされている「いのち」でありながら、何時の間にやら、そのことを忘れて「儂が、俺が」と、自らに固執し、他の「いのち」と対立して苦しみ、傷ついている私たちが、本当の「いのち」のあり方に目覚め、みんなの「いのち」と共に生きようと、我執から解放されることです。

 み教えに遇って本当の「いのち」のあり方に目覚め、共にという本当の「いのち」の世界に、必ず生まれることに決まったという喜びが、救われたという今の喜びです。また、本当の「いのち」の世界に生きると言うのは、こだわりが多いこの身が終わってからのことですから、将来必ず救われると喜ぶのです。

 「仏になる」とは、自らに固執するあり方をこえて、自分と他の「いのち」を別け隔てせず、同じように大切に生きる身となるということです。そのような身になることが、救いの喜びであると、蓮如上人は教えて下さいました。