懈怠とすくい

「こんなことで本当にいいのでしょうか」というお尋ねを受けて時ほど困惑することはありません。

 「それでいいのですよ」とお答えすれば、「これでよかったんですか」と、そこに胡坐をかかれるし、「それではいけません」といえば、どうにかならないと救われないように思って、「やっぱりああならなければいけないのですね」と、一人決められます。

 ですから、「こんなことでいいのか」というお尋ねには、「いい」と答えても、「わるい」と答えても違った方向にいってしまいます。

 蓮如上人の時にも同じようなお尋ねをする人がいたようです。「ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかとうたがいなげくものあるべし」という蓮如上人のお言葉が残っています。

 「どうでもいいようなことには熱中できても、本当にしなければならないことはなかなか気がすすまなくて、横着な日暮らしをしているが、こんなことでは救われないのではないか」と思う人がいるといわれるのです。

 そのような人に、蓮如上人は「もはや弥陀如来をひとたびたのみまいらせて、往生決定ののちなれば、懈怠おほくなることのあさましさ、かかる懈怠おほくなるものなれども、御たすけは治定なり」と話されました。

 「どんなことがあっても捨てることがない」という阿弥陀如来にお任せした上は、どのようなことがあっても阿弥陀如来のすくいに間違いはありません。

 ついつい横着になる私たちをほっておけないと、手を差し伸べてくださる阿弥陀如来です。そのことが解かれば横着を恥じ、気を取り直して、精進させて頂くべきですと教えて下さったのです。