お話をよく聞いた人の中には、私たち僧侶がビックリするくらいお経の言葉や、親鸞聖人の言葉を知っておられる人があります。
ところが、沢山沢山お経の言葉や、親鸞聖人のお言葉を知っておられても、その言葉の表面にとらわれて、「このお言葉はどう解釈すればいいのですか」、「ここのこのお言葉と、親鸞聖人のお言葉との関係はどうなるのですか」と、知的満足のみを追求しておられるのかと思う人がいます。
また、中には「ここはこういってもらった方が解かりやすい」、「ここはこういうべきだ」と、お経の言葉や、親鸞聖人の言葉にさえ注文をつける人がいます。
お経を学ぶ、親鸞聖人のお言葉を学ぶとはそのお言葉の表面にだけとらわれて、どうこう詮索することではありません。
お言葉の奥に在るといいますか、裏にあるといいますか、阿弥陀如来の私たちを思ってくださる深いお心に遇うことが、学ぶと言うことにおいて一番大切なことなのです。
蓮如上人は、「聖教をよくおぼえたりとも他力の安心を、しかと、決定なくば、いたづらごとなり」と教えて下さいました。
どれほどお経のお言葉や親鸞聖人の言葉を覚えても、阿弥陀如来の「どんなことがあってもあなたを捨てることがない」という、深く大きなお心に遇って、この確かな阿弥陀如来のお心にいだかれて精一杯生きようと、わが人生が決まり、わが身が安堵するということがなければ、お経を学んだと言っても、親鸞聖人のお言葉を知ったといっても、空しく、はかないことです。
蓮如上人は、そのことをご注意下さったのです。