「朝夕、お経を唱えると、何か心が落ち着きます」とか、「毎日お経をあげて、先祖のご供養をさせていただいています」という言葉をよく聞きます。これは、まるで読経は生きている人間の精神安定剤か、亡くなった人の霊魂安定剤のようです。
浄土真宗では、決してこのような意味で読経しているわけではありません。
蓮如上人は、「正信偈和讃をよみて、仏にも聖人にもまいらせんとおもふか、あさましや」と言われています。
浄土真宗の朝夕のお勤めは、「帰命無量寿如来」で始まる「お正信偈」ですが、この「お正信偈」を朝夕勤めるのは、阿弥陀如来のためとか、親鸞聖人のために勤めてあげているのだというような気持ちならば、それは間違っていますといわれるのです。そして、続いて
「他宗にはつとめをもして、廻向するなり、御一流には、他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の和讃にあそばされたり、ことに七高僧の御ねんごろなる御釈の心を、和讃にききつくるやうにあそばれて、その恩をよくよく存知て、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを、聖人の御前にてよろこびまふすこころなり」
と教えて下さいました。
すなわち、他宗派では、亡くなった人のために経を読むようですが、浄土真宗では「お正信偈」続いて「ご和讃」を読誦するのは、阿弥陀如来のお心、又そのお心を明らかにしてくださった七人の高僧のご解釈を自らが聞かせて頂き、自らがしっかりと受け止めさせて頂き、さらに自らが喜ばせて頂くのですと、蓮如上人は教えて下さったのです。