若い者にとって、親の言葉ほど素直に聞きにくいものはないようです。
私もそうでした、親の言葉が終わるまえに、「そんなことはわかっている」とか、「そんなことよう知ってる」と、親の言葉を遮りました。
しかし、本当は良くわかっていなくて、後になって、どうしてあの時もっとしっかり聞いておかなかったのだろうかと、後悔することが度々あります。
このようなあり方が、み教えを聞くときにも災いします。『安心決定鈔』というお書物に、「阿弥陀如来のお心を長い間きいていながら、どっちでもいいような自分のいろんなこだわりから抜けられなくて、結局同じところを行ったり来たりしてきました」というお言葉があります。
どれほど素晴らしい言葉を聞かせて頂いても、自分の立場、自分の知識、自分の過去等にこだわって、「そうは言われても」、「そうわ言われても」というような聞き方であれば、何時までたっても同じところを堂々めぐりするだけで、人生は開けません。こんな風になるのはどこかに問題があるのでしょうか。
蓮如上人は、先の『安心決定鈔』のお言葉が、どうも良くわかりませんと尋ねた人に、「ききわけて、之信ぜぬもののことなり」とお答えになりました。
すなわち、阿弥陀如来のお心を聞いても言葉の端々にとらわれて、あの表現はどうの、この言葉はどうのと、自分の思いで聞き分けて、阿弥陀如来の「どんなことがあってもあなたを捨てることができない」と案じてくださる深い心を受けとることができないからです、と教えて下さったのです。