問え

 言葉は相互の理解を深めるためにあるのでしょうが、この世では「相互の誤解を招くために言葉がある」のかと悲しくなることが度々あります。

 先日も「先生の本を読んで仏教を聞く気がなくなったといっている人がいる」という話を聞きました。

 「どういうことですか」と、お尋ねしますと、「お釈迦さまが、生まれて七日目にあるいたと書いてあったのが、そんな馬鹿なことはない。そんな馬鹿げたことを書く先生の話は聞きたくない」といわれているとのことでした。

 しばらく考えてわかったのです。私が『少年少女のための法話集』という本に、釈尊はこの世にお生まれになった時、七歩あるいて天と地を指さし、「天上天下唯我為尊」といわれたと伝えられていますが、その意味するところは、六つの迷いの世界をこえて真実に生きられた人ということですと書いたのを、すこしかじり読みされて、七歩が七日になったのだと思いました。

 直接尋ねてくだされば「もう仏教を聞かない」というような悲しいことにはならないのにと、やりきれない思いになりました。

 蓮如上人は、「日ごろ、しれるところを、善知識にあひてとへば、徳分あるなり」といわれました。

 「わかったつもりになっているところでも、重ねて尋ねることが大切です」といわれたのです。

 そしてつづいて、「不知處をとはば、いかほど殊勝なることあるべき」といわれています。「だから、わからないところを尋ねるということは、どれほど素晴らしく大切なことかわかりません」といわれたのです。