わろき

 私たちは、同じ話より違った話が聞きたいものです。確かに、その時その時違う話を聞くのは、心の楽しいことですし、また、そのことによって知的満足を得ることもできます。

 しかし、それはそれだけのことであとに何も残りません。仏法を聞くとは、お話を聞いて楽しかった。知らない事を聞いてうれしかったということではないのです。

 仏法を聞くとは、一つのことを、この身にしみこむまで、繰り返し聞くことなのです。文字通り、この身に血肉になるまで、一つのことを聞きぬくのが、仏法聴聞なのです。

 一つのこととは、「どんなことがあって私を捨てることのない」阿弥陀如来の確かなお心です。大阪の河内、久宝寺村に住んでいた法性という人が、蓮如上人に、「どんなことがあっても私を捨てることのない阿弥陀如来がましますと聞かせていただき、阿弥陀如来におまかせするだけで間違いなくお浄土に生まれさせていただくのだとお聞かせいただいていますが、このような領解でいいのでしょうか」と尋ねますと、そばで聞いていた人が「そのようなことは、いつも聞いていることではないか、もっと変ったことを尋ねたらどうか」といいました。

 それを聞いて、蓮如上人は、「それぞとよ、わろきとは、めづらしき事を

 聞きたくおもひ、しりたく思うなり、信のおへにては、いくたびも心中の

 おもむき、かように申さるべきことなるよし」と、厳しくご注意されました。

 「それが一番わるいのです。それとは、変わった話を聞きたく思う心です。一つことをいくたびも、この身にしみるまで聞くのが仏法聴聞です」とご注意くださったのです。