若き時たしなめ

 この世を生きるのは忠孝の道、この世の規範は「教育勅語」という時代の中で、仏教は前生の業を説き、後生の楽果のみを説くものになってきました。

 ですから現代でも、お寺は死後とまでいわなくとも、死が近づいてから用のあるところと考えている人が多いようです。

 仏教は、前生と後生のみを説くものではありません。今生、今、ここに生きている私が、この「いのち」をどう生きるのかということが、釈尊が一番明らかにしてくださったところです。

 「寝て食て、寝て食て、忙しい、忙しい」だけで、この「いのち」を終わるならば、こんな悲しいことはありません。

いただいた「いのち」を本当に活かしきって、一日一日を生きる。そのためには、確かな「よりどころ」をもちなさいと教え、その確かな「よりどころ」を、あきらかにしてくださったのが仏教です。

 ですから、仏教に遇うのは早ければ早いほどいいのです。若ければ若いほどいいのです。だからといって、年老いたものは仏教を聞く必要がないということではありません。一度は必ず仏教に遇ってほしい、遇うのは少しでも早い方がいいということです。

 蓮如上人のころの話ですが、仏法をよろこんでいた人が「わかきとき、仏法はたしなめと候。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきとき、たしなめ」といわれたというのです。

 確かに、年を取ると、足が痛くて寺に参れない、参っても足が痛くて座れない、座っていても居眠りが多くなるということになります。

どちらにしましても、一時も早く仏教に遇われることが大切です。