お聖教

 私たちは「これは大切なものだから」と、大切なものであればあるほど、みんなの目に付かないところにしまい込んでしまいます。ひどい場合には、あまり大切にしまい込んで、いざと言うとき、何処にしまい込んだかわからないと言うようなことさえあります。

 み教えを聞くものにとって一番大切なものは、お釈迦さまのお言葉、また親鸞さまのお言葉に出会うことの出来るお聖教(聖典)であります。

 現代では、みんなの人が読みやすいようにと、字を大きくしたり、ルビを付けたり、また注釈を付けてくださったお聖教も出版されています。

 しかし、せっかくこのように読みやすく工夫してくださったお聖教が出ても、皆が大切に大切にとしまい込んでおられるようでは、せっかくのお聖教の生きて働いてくださる場がなくなります。

 なにかにつけて行き詰る私たちの人生を開いてくださるお釈迦さま、親鸞さまの素晴らしいお言葉の宝庫であるお聖教を大切にするということは、決して大切にしまい込むという事ではありません。

 蓮如上人は「聖教はよみやぶれ」と言われました。

 お聖教を大切にするとは、何かにつけてお聖教を開くことです。すなわち、何かにつけて行き詰る人生、何かにつけて閉じこもってしまう「いのち」を、お釈迦さまのお言葉、親鸞さまのお言葉に聞き続けて行くことです。

 文字通り、読み破れるぐらいお聖教を開くことが、お聖教を大切にすることなのです。まず、ご家庭の御文章箱を開くところからでも、「聖教は読み破れ」を始めてみてください。