聖人の御罰

 複数の人間がいっしょに生活していると、どれほどの中のいい間柄でも、時にはぶつかることがあります。

 ぶつかるというのは近いということですから、ぶつかることそのことは、ある意味ではいいことです。いっしょにいて、全くぶつからない方がかえって問題です。

 ぶつかることのどこがいいのかといいますと、ぶつからないと表の出てこないお互いの胸の奥にあるものがわかり、より深く相手を理解できるということがいいのです。

 ところが、ぶつかったあとの処理をあやまりますと、いっしょにおれなくなることもあります。ぶつかったあとの一番大切な事は、自分の悪かったところを素直にあやまることです。

 私たち人間のやることに、一から十まで正しいということもなければ、一から十まで間違っているということもありません。正しいと思い込んでいる行為にも、後で振り返れば、あの点はどうもいけなかったということが一つや二つはあるのです。

 その気付いた点だけでもあやまれば、お互いの結びつきはかえって強くなり、ぶつかったことがいいことになるのです。ところが、これは「言うは易く行なうは難し」です。

蓮如上人のお言葉に「たれのともがらも、われはわろきとおもふもの、ひとりとしてもあるべからず。これしかしながら、聖人の御罰をかうぶりたるすがたなり」というのがあります。

 「親鸞聖人のみ教えに遇って、自らをふりかえる目を恵まれたら、このようなことにはならないだろう」と、蓮如上人は厳しく教えて下さったのです。