わかる
一口にわかったといっても、いろんなわかり方があるようです。頭でできたのもわかったということでしょうし、心で共感したのもわかったということでしょう。
仏教では領解という言葉で、このわかったということを味わっています。
領解とは、頭でも心でもなく、身に受け止めることができたということです。
頭の理解は、上手な説明があれば達成できます。心の共感は、上手なお話にあえば生まれてきます。
ところが、身の領解は、どれほど上手なお話にあっても実現しません。
身の領解は、み教えを身にかけてよろこんでいる人のよろこびに遇わないかぎり、開けてこないようです。
ですから、ただ説明やお話の表面を聞いているだけでは領解になりません。ではどうしたら領解になるのでしょうか。領解は言葉の奥にある語る人の喜びが受け取られた時に実現するのです。
言葉の表面だけを聞くのでなく、言葉によって語られている語る人のよろこび、すなわち、語る人のみ教えに遇ったよろこびに遇うのが、領解なのです。
蓮如上人が「御一流の義を、承はりたるひとは有りとも、聞うる人は少なりといへり、信をうる機まれなりといへる意なり」といわれたのも、ご法話の言葉の表面だけを聞いている人は少なくないといわれたのです。
だから、阿弥陀如来のあたたかいお心を真に受け取る人、すなわち信心の人はまれであるといわれたのです。この蓮如上人のお言葉のおこころをしっかり受け止めさせて頂きたいものです。