罪の沙汰

 私たちは、他の人のなしたことはあまり評価しないくせに、自分のやったことは常に高く評価してほしいというところがあります。

 他の人が苦労して、苦労して成し遂げたことを「あの人は恵まれているからな」と、その人を取り巻く人や物のせいにして、本人の苦労を認めようとしません。

 ところが、自分がやったことなら、ちょっとしたことでも条件の悪い中で、私がかうかくしかじかの苦労をしたので事が成し遂げられてと、自らの苦労を誇ります。

 本当は、他の人が少しのことでも成し遂げたら「ご苦労でしたね」と、その人の労をねぎらい、自分が何かできた時には「みんなの人のお陰でやらせていただきました」と、自分をとりまく人やものに頭を下げるべきでしょう。

 しかし、私たちはどうもそうはなりません。どうしても自分のやった事を誇らずにはおれないのです。

 ところが、この自分のやったことを誇るひとが、逆に、罪を犯したり、悪を行うと、それが全てで、阿弥陀如来のお救いも、これでダメになるのではと落ち込みます。

 自分のなした善根によりお救いに預かり、自分のなした罪悪により救いは遠のくと思うのでしょう。蓮如上人は、「つみの沙汰無益なり、たのむ衆生を本とたすけたまふ事なり」と言い切られました。

 私たちのなした善悪によって、すくう・すくわないという阿弥陀如来ではないのです。 阿弥陀如来のたしかなお心ひとつをよりどころに生きる衆生を必ず救いとって下さる如来さまなのです。